鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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㉒ 豊臣秀吉「大鷹野」と鷹狩図屏風研 究 者:筑波大学 芸術系 助教  水 野 裕 史はじめに本稿は、豊臣秀吉が天正19年(1591)に尾張や美濃で催した「大鷹野」と鷹狩図屏風との関係性について明らかにすることを目的とする。具体的には、伝雲谷等顔筆「花見鷹狩図屏風」(MOA美術館、以下、MOA本と略称)〔図1〕について、その図様を分析することで、鷹狩図における豊臣秀吉「大鷹野」の影響について追究する。近年、「豊国祭礼図屏風」や「吉野花見図屏風」などの近世初期風俗画を中心に、豊臣秀吉への憧憬を読み取ろうとする研究が活況を呈している(注1)。秀吉の事績をめぐっては、「吉野の花見」や「北野大茶会」などが著名であるが、本稿で対象とする「大鷹野」もその一つとして知られている(注2)。MOA本は、先行研究によって「花見図」は「吉野の花見」の画題の可能性が指摘されている(注3)。また、「鷹狩図」には豊臣家の家紋である「五三桐」〔図2〕が認められるなど、豊臣家との関係を窺わせるのである。加えて、豊臣政権の武門長久を表す絵画として「鷹図」が広まったとする四宮美帆子氏の指摘は、「鷹」というモチーフに対して秀吉「大鷹野」の影響があった可能性を傍証すると言えよう(注4)。近世初期の鷹狩図屏風としては、複数知られているが、これまで秀吉との関係が議論されることはなかった。鷹狩図の研究としては、今橋理子氏による大著があり、「鷹狩図屏風」(大阪歴史博物館)の画題解釈として源氏絵の可能性が指摘されている(注5)。また、久隅守景筆「鷹狩図屏風」(日東紡績株式会社)について、内山淳一氏は加賀前田家の関与を言及され、鷹狩図と受容者の関係について研究が進みつつある(注6)。MOA本は現存する作例の中でも、最も古いものとして貴重である。そこで本稿で、MOA本を対象に、そのモチーフを分析し、その制作背景として豊臣憧憬があることを指摘する。1 伝雲谷等顔筆「花見鷹狩図屏風」の概要まずは、MOA本を概観しておこう。左隻に鷹狩、右隻に花見が描かれた風俗画である。植物や山、人物の描法から雲谷派による作例と考えられており、史料『寺社由来』から作者を三谷等宿と比定されている(注7)。筆者には等顔なのか等宿なのか、その作者を比定するだけの材料がないが、本図は雲谷派の作品であることに疑いない。例えば、鷹狩図の第四扇〔図3〕や六扇に描かれた鋭利な三角形の上に墨線を重― 236 ―― 236 ―

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