鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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は十分に考えられる。しかし、MOA本は、武家の描写であり、公家の描写は認められない。仮に伊勢物語を深淵とするならば、公家風であるべきだろう。そこで、伊勢物語という、やまと絵による画題を漢画へ置き換えたものと考えてみたい。3 豊臣憧憬と鷹狩次に、花見と鷹狩の組み合わせについて、豊臣秀吉の事績から考えてみたい。花見と鷹狩は、秀吉の代表的な行事と知られているからである。まずは、絵画にみる豊臣政権の表象について簡単に確認しておこう。文禄3年(1594)2月に、豊臣秀吉は、吉野にて大規模な花見を催した。この「吉野の花見」が屏風として描かれている。代表作例としては、「豊公吉野花見図屏風」(細見美術館)がある。本図をめぐっては、三宅秀和氏による詳細な研究報告があり、豊臣政権の表象として鋭く論究されている(注16)。秀吉一行が認められ、秀吉の治世を讃える屏風とされる。また、慶長3年(1598)3月の「醍醐の花見」も「醍醐花見図屏風」(国立歴史民俗博物館)として制作されている(注17)。秀吉が築城を命じ、天正15年(1587)9月に完成した聚楽第を主題とする「聚楽第図屏風」(三井文庫)は、洛中洛外図の影響を受けて成立したもので、成澤勝嗣氏は「洛中洛外図にならいながら、秀吉の権力のシンボルを中核に据えようとした」と制作意図を述べ、天下人と風俗画の関係性を読み解いている(注18)。このように近世初期の風俗画の作例から、秀吉の事績を踏まえた上で、美術作品における豊臣政権の関与が論じられている。秀吉の代表的な事績としては、「吉野の花見」や「醍醐の花見」、「北野大茶会」などがあるが、天正19年(1591)に尾張や美濃で催された「大鷹野」も著名である。大行列を伴って京都へと凱旋した様子は、同時代の様々な文献に記され、近衛信尹の日記『三藐院記』に「希代ノ見物也」と評されるように、熱烈な歓迎をもって、京の公家衆に迎え入れられた(注19)。この時の行列は、17世紀後半に絵巻として表され、下絵であるが狩野永納筆「秀吉鷹狩絵巻」(京都大学総合博物館)として残る(注20)。この鷹狩では、鶴や雉、山鳥などが二万羽以上捕獲されたらしく、その狩猟は当時の生態系が変わるほどであった(注21)。この「大鷹野」の史的意味については、近年研究が進んでおり、東国の大名への牽制の意味、秀次への家督譲渡の時機と一致することから、関白職譲渡のためのパフォーマンスとされる(注22)。このような大規模な鷹狩が、「吉野の花見」と同じく屏風として表されたとしても不思議はないだろう。そこで、MOA本の制作背景として、豊臣政権の表象として描かれた可能性を考え― 239 ―― 239 ―

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