鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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てみたい。右隻の花見図は「吉野の花見」であり、左隻の鷹狩図は、この「大鷹野」を主題と仮定すると、両図ともに秀吉の事績を描いたものとして十分に解することができる。加えて、そのような豊臣家への憧憬は、鷹狩図の人物に捺された家紋の表現から推測することができる。第三扇下に描かれた鷹匠の素襖には、「五三桐」が捺されている。家紋が捺されている武士は、この他に見当たらず、この家紋が何らかの意味を示している可能性がある。「五三桐」は豊臣家の家紋であり、やや強引であるが、豊臣家を暗示しているのかもしれない。4 韃靼人図からの転用豊臣憧憬は、MOA本に見られる空間表現の乱れからも説明がつく。本図には、華麗な風流踊や荒々しい鷹狩が描かれている。「吉野花見図」や「豊国祭礼図」に見られるような人々の活況は、秀吉を讃えるためのイメージとされ、MOA本にも認められる活気に満ちた様子は、秀吉を讃えるための図様として採用されたと考えてみたい(注23)。また、鷹狩図における画面全体に点在して描かれた狩猟の様子は、数多くの鳥獣が乱獲された秀吉「大鷹野」を表すためのモチーフであったと考えてみたい。加えて鷹狩図が持つ王権の象徴からも解釈できる余地がある。王権の象徴として描かれた狩猟の画題に「韃靼人図」がある。MOA本は、この韃靼人図から転用されたとも考えられる。韃靼人図とは、韃靼人が狩猟や打毬をするという主題で、中国で成立し、15世紀末には日本に伝来した画題である。その図様の伝統は強固とされ、繰り返し同じ図様や場面が用いられた(注24)。MOA本には、この韃靼人図と共通するモチーフが認められる。例えば、狩野山雪筆「韃靼人狩猟打毬図屏風」(国立歴史民俗博物館)〔図8〕の右隻に見られる帳幕と打毬の場面を分断する巨大な松の描写は、MOA本にも場面を区切る図様として採用されている。また、伝狩野宗秀筆「韃靼人狩猟・打毬図」(サンフランシスコ・アジア美術館)〔図9〕の左隻に見られるような画面全体にわたって、狩猟をする様子は、MOA本にも通じる。このような表現の共通性から、MOA本は韃靼人図の変容と指摘できるのではないだろうか。狩野派による韃靼人図は、「文姫帰漢図巻」(大和文華館)を典拠とし、近世初期の狩野派や長谷川派、そして雲谷派らによって描かれた(注25)。MOA本の作者である等顔・等宿周辺も韃靼人図を熟知していた可能性は高く、その知識を活かし本図が制作されたと考えられる。韃靼人図は、東山殿の会所や安土城といった為政者の邸宅の障壁画として飾られていたように、鷹狩という権力の象徴と相まって、権威を示す画題として受容された― 240 ―― 240 ―

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