注⑴成澤勝嗣「王権への追憶−太閤秀吉と風俗画のあやしい関係」『講座日本美術史 3』、東京大学出版会、2005年。三宅秀和「近世名所図屏風の吉野と厳島─その組み合わせと豊臣政権との関わりについて─」『学習院大学人文科学論集』14、学習院大学大学院人文科学研究科、2005年。松島仁「豊臣、その失われた風景を求めて─「洛中洛外図屏風」と「豊国大明神像」をめぐる試論─」『聚美』11、聚美社、2014年。三宅秀和「豊臣秀吉の吉野の花見と吉野花見図屏風」『聚美』11号、聚美社、2014年。(注26)。韃靼人図と豊臣家との関わりについては、これまでは殆ど論じられてきておらず、後稿としたいが、豊臣政権下で活躍した晩年の狩野永徳や山楽らの制作があることから、豊臣家との関連を検討する必要がある。おわりに本稿は、鷹狩図制作における豊臣政権の影響について、伝雲谷等顔筆「花見鷹狩図屏風」から解釈を試みた。本図は、伊勢物語を下地に、やまと絵の画題を漢画へと置き換え、さらに韃靼人図をイメージソースとして成立した作品と言える。花見図と鷹狩図にそれぞれ、やまと絵と漢画に見られる表現を採用し、和漢混合とでも言うべき様式が認められるのである。花見と鷹狩という構成からは、「吉野の花見」と「大鷹野」という二つの秀吉の事績を表したものと指摘できる。ただし、現実的な吉野、鷹狩をおこなった尾張や美濃を描いたものではなく、象徴としての場所を描いたものであった。そのため、場面が特定できるような秀吉などは書き込まれていない。並木誠士氏は、16世紀を新しい感覚で描かれた絵画が誕生した時代と言及し、この時期の風俗画について、場面の特定性が失われ、風俗自体に描写の関心が移ったとする(注27)。MOA本は、韃靼人の狩猟図から日本の武士の狩猟図への変化した初発的な作品であり、洗練された構図とは言い難い。しかし、それが却って、絵師独自の発想と認められ、中世から近世への移行期における画題成立の過程を知る貴重な作品と位置づけられるだろう。⑵山名隆弘『戦国大名と鷹狩の研究』纂修堂、2006年、17頁。⑶山本英男『日本の美術 第323号 雲谷等顔とその一派』至文堂、1993年、70-72頁。井戸美里『戦国期風俗図の文化史─吉川・毛利氏と「月次風俗図屏風」─』吉川弘文館、2017年、164-172頁。⑷四宮美帆子「豊臣政権下の鷹図」『早稲田大学大学院文学研究科紀要 第3分冊』58、早稲田大学大学院文学研究科、2013年。⑸今橋理子『江戸の花鳥画─博物学をめぐる文化とその表象』スカイドア、1995年。⑹内山淳一「久隅守景筆「鷹狩図屛風」について─加賀藩との関わりを中心に」『美術史』181、― 241 ―― 241 ―
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