鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
258/643

㉓ 対幅として制作された頂相と俗人肖像画に関する研究─妙智院本夢窓疎石像再考─研 究 者:神奈川県立金沢文庫 主任学芸員  梅 沢   恵はじめに京都・天龍寺塔頭妙智院の夢窓疎石像(以下、妙智院本)〔図1〕は夢窓の頂相のうち、最も卓越した作風を示す作例として知られている。本図は自賛のある基準作であること、款記により無等周位という筆者が知られる点でも重要な作例として位置づけられてきた。また近年、米倉迪夫氏の説(注1)にはじまる神護寺三像の制作年代についての議論の中でも、妙智院本に注目が集まっている。しかし、他本との比較により浮かび上がる妙智院本自体の特異性や、14世紀絵画史における位置付けについての検討は十分に尽くされているとはいえない。筆者はこれまで、妙智院本の研究を進める過程で、『懶室漫稿』所載の「天龍開山国師真相記」の内容について再検討してきた(注2)。本研究では、画面の観察、他本との比較から妙智院本の特異性にあらためて着目し、夢窓に帰依した俗人為政者との関わりなどから当初より対幅として制作された可能性を考えてみたい。1 夢窓疎石の初期頂相の比較夢窓疎石(1275~1351)の頂相は非常に多く現存しており、在世時期、没後間もなく制作された頂相も少なくない。『夢窓国師遺芳』(注3)には中世の作例を中心に三十幅近く掲載されている。本書未収録作例や現在では失われてしまった作例を文献から復元的に考えるとその数は膨大になる。このことは夢窓の弟子が多かったことが関係するであろう。主要な夢窓の頂相の一覧を〔表1〕に示す。夢窓疎石の頂相は大きく分けて全身像と半身像があり、さらに右向き左向きの像に分かれる。こうしてみると、全体では左向きの像が多いことがわかる。頂相の制作にあたっては従来指摘されているように、紙形が用いられたと考えられる。妙智院本もまた、反転させて重ねると、肩から腕にかけてのラインがほぼ一致する。このことから、夢窓の在世時期、没後間もなく制作された頂相は妙智院本を含め、同一の紙形を共有して制作されていたと考えられる。また、遺例は少ないが、全身像もほぼ一致するため、やはり紙形が存在したと推測される。夢窓の後継者として天龍寺二世となった無極志玄に請われて、亡くなる直前に揮毫― 246 ―― 246 ―

元のページ  ../index.html#258

このブックを見る