鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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した賛を有する像〔図2〕が天龍寺慈済院に伝来する。描線は妙智院本に近いものの暈の入れ方など彩色技法は異なる。着賛の時期が十年ほど早い天龍寺本に比べて理想化への傾向もみとめられる。本稿では、妙智院本と比較する主要な作例として慈済院本、黄梅院本、光明寺本を中心にとりあげる。慈済院には夢窓の頂相のほか、無極の頂相〔図3〕が伝えられている(注4)。袈裟は慈済院に伝来する夢窓疎石から無極志玄へ与えられた相伝の九条袈裟を描いたものである。高峰顕日の襯衫、無学祖元の直裰、無準師範の環が組み合わされ、夢窓の法を嗣いだ証としてふさわしく、頂相の機能の典型的事例といえよう。なお、この無極像の画中には「周豪」の朱文方印がある。筆者とみられる周豪については従来未詳であったが、『三国伝記』「上総国極楽寺郷居住高階氏ノ女夢想ノ事」という説話に「嵯峨なるところに住院ありける」、「周豪上座」という僧であることが指摘されている(注5)。黄梅院は、夢窓の死後、関東における夢窓派の拠点として円覚寺に創建された塔頭で、夢窓の自賛の頂相〔図4〕の他、後述する夢窓所用と伝える袈裟〔図5〕を所蔵する(注6)。光明寺は、現在、臨済宗建長寺派の寺院であるが、前身の宝積寺は、黄梅院の初代院主の方外宏遠が創建した夢窓派の寺院であった(注7)。同寺には、金襴の袈裟を着した夢窓の頂相〔図6〕が伝えられるが、元僧の月江正印の賛がある頂相として他に類例をみない(注8)。黄梅院本、光明寺本は、ともに、京都の夢窓周辺で制作され、東国にもたらされた頂相であると考えられる。2 妙智院本の表現妙智院本は絹本著色、縦126.0cm、横50.5cmの掛幅装で、画面の中心に体をやや右に向けた斜め方向から半身を描いている。他の諸本と同様、紙形より起こされて作画されたものであると考えられる。薄墨の衲衣、下着と茶の内衣を袂と袖からのぞかせ、条葉、縁は香色、田相は黄色あるいは薄茶地の袈裟を掛け金属製の環で袈裟を留める。袈裟の生地は薄く、条葉、行の縁の布が重なったところは一段濃く表現されている。衣紋線は多少の抑揚があるものの、線が主張しすぎることはない。衲衣の中に重ねられた茶の衣には細かい雷文の地模様も確認できる。環の部分の絵具はほとんど剥落している。顔の目鼻の位置は他本とほぼ一致する。少し尖った頭頂は夢窓の頂相や彫像によく見られる特徴である。頭頂部の丸みを表現するために輪郭線の内側に濃い色暈が施さ― 247 ―― 247 ―

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