鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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では戦前より、澤村専太郎氏、渡邊一氏らの先学の研究において史料が博捜され、初期禅宗美術の担い手として高く評価されてきた(注11)。「無等周位筆」という楷書で、道号の下の法諱をやや小さく記す落款は交易などによりもたらされたいわゆる寧波仏画の落款に近いスタイルを見ることができる。無等周位が舶載仏画に接することができる画僧であった証左といえよう。表現においても妙智院本にみられる頭部の色暈によるモデリングや耳の外耳の朱隈、衣の質感の表出への執着などは、金大受などの舶載羅漢図の特徴として認められるものである。他本との細部の比較から、妙智院本の豊かな表現を確認してきたが、最も顕著な点は妙智院本が異例の右向きの像であることである。妙智院本の賛については、画面の全体のバランスを見たときに、賛の筆勢がやや控えめなのが気にかかる。書体も黄梅院本などと比較すると筆の勢いが乏しい印象をうけ、丁寧に写されたような印象さえうける。そのため、夢窓の自筆とするのに慎重な意見もある。妙智院本の賛は左から右向きへと進行する。賛の進行方向については像主の顔の向きにあわせて記されるという説や、寿像と遺像で向きが異なるという説があった。しかし、ごくシンプルに考えた場合、妙智院本は対幅として構想された可能性があるのではないだろうか(注12)。近年の研究で、頂相に描かれた袈裟が師から相承された伝法衣やゆかりの袈裟を正確に描いていることが注目されている(注13)。慈済院本は田相の文様の一致などから天龍寺伝来の伝法衣とみられる。また、黄梅院本、光明寺本をはじめ、夢窓派寺院を中心に、貞和元年(1345)の天龍寺開堂の際に光厳天皇から夢窓へ贈られた金襴の袈裟を着した頂相が伝来している。しかし、妙智院本の袈裟は、環も含めて簡素である点が指摘できよう。4 「天龍開山国師真相記」の再検討仲方円伊『懶室漫稿』に収録される「天龍開山国師真相記」は澤村専太郎氏、渡邊一氏など先学により紹介され(注14)、以来、無等周位について語る際に常に引用されてきた。これは、永和三年(1378)に休翁普寛が無等周位筆の夢窓像を得た話であり、暦応四年(1341)の賛のある無等周位筆の夢窓像が他にも存在した史料として紹介されてきた。そして、この記事が妙智院本の制作年代のおおよその位置づけの根拠にもなってきた。しかし、さらにこの記事にはほかにも重要な情報が提示されていることがわかる。― 250 ―― 250 ―

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