鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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で師から弟子に与えられる頂相は寺院の内部での授受が想定されてきた。しかし、『夢窓疎石年譜』や現存する頂相の賛から、在家の信者にも衣や頂相を与えていたことがわかる。5 妙智院本に描かれる袈裟「天龍開山国師真相記」の後半部には、夢窓像とともに黄色の僧伽梨衣つまり、袈裟が伝来したことが記される。高師直の所持した頂相と一緒に伝来した袈裟もまた、おそらく夢窓ゆかりの袈裟と考えられる。夢窓が居士に与えた袈裟としては、黄梅院に足利尊氏が納めた夢窓所用の九条袈裟〔図5〕が想起される。袈裟の墨書に文和三年(1354)とあり、この年は鎌倉における夢窓の塔所として黄梅院が創建された年で、尊氏が所持していた袈裟を黄梅院におさめたものと考えられる。この袈裟は白茶地の薄い団龍文の羅を縫い合わせて、縁と条葉に紗を置くようにして縫い合わせて仕立てたもので、田相には夢窓の天龍開山の金襴袈裟にもみられる団龍文がある。つまり、この袈裟は代々相承されてきた伝法衣ではなく、新規に仕立てたものとみられる。妙智院本の袈裟の条葉の縁が一段階濃くなっているのは、この黄梅院の袈裟のように紗のような透ける布地を表現したものとみられる。そして、注目されるはこの袈裟と妙智院本に描かれる袈裟があまりにも似ていることである。中近世の官寺禅院の住持の任命は幕府から公帖の発給によってなされ、「諸山」以上の住持に任命された僧は、「黄衣」を着ける事が許された。暦応四年(1341)、開創された天龍寺を五山に加えるため、足利尊氏は院宣をうけて五山制度の改革をおこなっている。夢窓が開山として迎えられた天龍寺は五山の第二位であったため、夢窓は黄衣の着用を許されていたと考えられる。少し時代が下るが、義堂周信の『空華日用工夫略集』には興味深い記事(注19)がある。中玉という弟子が義堂の肖像を描いて賛を求めてきたが、描かれた袈裟が黄衣だったため、壊色に塗り直さないと著賛しないと突き返している。その理由として、近頃、黄衣が五山長老の標識となっており、僧たちが競って黄衣を着けていることを憂いているためだという。翌日、再び中玉に請われ、渋々ながらも黄衣の頂相に著賛したというエピソードである。高師直が所持していた暦応四年の年記がある無等周位筆の頂相の行方はわからない。しかし、この俗人が所持した夢窓の頂相が黄色の袈裟(黄衣か)とともに伝えられたことは注目されるべきであろう。そして、「天龍開山国師真相記」にみえる高師― 252 ―― 252 ―

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