注⑴米倉迪夫『源頼朝像 沈黙の肖像画』平凡社、1995年(平凡社ライブラリーとして再刊、2006年)。黒田日出男『国宝神護寺三像とは何か』角川学芸出版〈角川選書〉、2012年。有賀祥隆「国宝伝源頼朝像雜感」『国華』1413、2013年。『第41回 美術講演会講演録 国宝源頼朝像再考』鹿島美術財団、2013年、等参照。直が所持した頂相の例の他にも、『夢窓疎石語録』の仏祖賛の項には「仁山大居士請」とあり、夢窓が賛を著した尊氏像が存在したこともわかる。妙智院本もまた、俗人帰依者に与えられたものであり、体と賛の向きから、俗人肖像画(注20)との対幅であった可能性を想定しておきたい。おわりに妙智院本には、ほぼ同一の図様で描かれる慈照院本という唯一の類例がある。慈照院本にも金泥で「無等周位筆」の落款があるが、画風から、妙智院本と作者は異なるとみられる(注21)。ただし、慈照院本との比較で注目されるのは、同文の賛が着されながら、記される向きが異なる点である。さらに、慈照院本では、慈済院本など諸本と同様、「夢窓」とだけ自賛されるが、妙智院本では「夢窓疎石」と道号と法諱を完備していることも注目される。これは、現存作例中ではほぼ唯一であり、あらたまった印象をうける。慈照院本の存在は、妙智院本の賛が意図的に左からはじまるように着されたという本稿の仮説を補強してくれる。以上の考察から、妙智院本が対幅の向かって右幅として制作された可能性が高いといえよう。左幅に誰の肖像画が配置されたのか、現時点では決め手に欠けるといわざるを得ない。無等周位の活動時期に絞ってみた場合、『常楽記』に「貞和六年正月廿一日。位侍者円寂。」とあり、「位侍者」が同一人物であれば、夢窓の没年観応二年(1351)の一年前の貞和六年(1350)に無等は亡くなっている。その前年の貞和五年(1349)、足利直義は高師直との争いに敗れ、足利義詮が上洛して政務に就くと、左兵衛督を辞して夢窓疎石を戒師として出家している。これに先立ち、同年三月には夢窓から受衣しており(注22)、その際に、直義のために夢窓の頂相が制作された可能性は高い。課題は多いが、妙智院本が直義像と双幅であった可能性も視野に入れて検討していきたい。⑵梅沢恵「妙智院本夢窓疎石像について─夢窓疎石像の諸作例間の画風の振幅の問題を中心に」美術史学会東支部例会、2013年3月23日、東京大学。⑶加藤正俊『夢窓国師遺芳』、大本山天龍寺、2000年。― 253 ―― 253 ―
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