鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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44444この燭台がイラクの的指導者(=イマーム)を預言者ムハンマド(632年没)の娘婿アリー(661年没)の血統に連なる者であるべきとするシーア派のうちの一派であり、初代イマームと見なされる前述のアリー以降、第12代イマームであるムハンマド・マフディー(874年に小幽隠)(注6)に至るまでの12人を無謬のイマームと見做す立場を取る〔図8〕。本稿では、まず、上述の《ドーハ燭台》の裏側の銘文と表面の図像とを分析し、紀年銘入りの類似作品数点と比較することにより、その制作・寄進時期について検討す4444十二イマーム・シーる。続いて、当該時期において、イラン製のア派聖者廟、とりわけ第7代イマームであるムーサー・カーズィムの廟に寄進されたことの宗教的・政治的意義について明らかにする。Ⅱ 制作・寄進時期イスラーム聖者廟への工芸品の寄進は、西アジアにおいて繰り返されてきた営為である(注7)。また、とりわけ金属製燭台に関して言えば、聖者廟への寄進(注8)はさることながら、聖者廟における調度品としての使用も、トプカプ宮殿博物館附属図書館所蔵〈占いの書 Fālnāma〉写本(所蔵番号:Hazine 1702)第43葉裏面のイマーム・レザー廟(所在地:イラン、マシュハド)(注9)における参詣の場面の挿絵〔図9〕や同廟のワクフ文書の記述(注10)から窺われるよう、珍しいことではなかったはずである(注11)。では、《ドーハ燭台》がイマーム・ムーサー・カーズィム廟に寄進されたことの史的重要性はどこに認められるのか。この議論を展開するためにはまず、《ドーハ燭台》の制作時期について検討し、イマーム・ムーサー・カーズィム廟への寄進が行われたと推測される時期を絞り込まなくてはなるまい。結論から述べると、《ドーハ燭台》は、キュレトリアル・ファイルにあるよう「ティムール朝」時代/「1400-1500」年の作品ではあり得ない(注12)。その理由は以下の3点である。第一に、環状に闘争する2匹の動物像は、16世紀後半以降のイランで制作された工芸品に広く見られるモチーフであるためである。例えば、サファヴィー朝第5代君主アッバース1世(在位1588-1621年)の治世中にイランで制作されたとされるMIHO MUSEUM所蔵〈メダイヨン・動物文絨毯〉(所蔵番号:SS1308)のフィールド部分〔図10-a〕とボーダー部分の花枠の内側〔図10-b〕にも、獲物を捕らえる猛獣のモチーフが施されている。同様のモチーフは、ヒジュラ暦1014/1605-06年の紀年銘を有するエルミタージュ美術館所蔵の真鍮製水注(所蔵番号:VC-701)〔図11-a〕胴部にみられる八芒星形の枠の内側〔図11-b〕においても用いられている。― 15 ―― 15 ―

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