へと改めた。次に、黒書院及び白書院の西入側戸袋前の《透垣紫陽花図》(〔図1〕㉓東、㉚西)は、後にも触れるように、元は一続きの画面であるが、花の樹高が紫陽花よりも大きいので、武田氏が既に提示されていた《垣手鞠図》へと改めた(注7)。本報告では、以上2箇所の修正のみとした(注8)。ただし、先行研究において、花木の画題が一致しなかった面がある。白書院北入側の東寄りと東入側の北寄りで杉戸が直角に交わるように配置され、2面ずつの画面が4面一続きになる所である(〔図1〕㉝東と㉞北)。指定書では《林檎図》であるが、土居氏は《海棠図》とされ、武田氏は《花梨図》とされた。三種ともにバラ科の落葉高木である。花梨は、白書院東入側の《渓流水禽花梨図》(〔図1〕㉞南)に描かれているように、葉が大きめで、葉に取り囲まれるように花が咲くところから、この4面を花梨とする説は取らない。海棠と林檎はいずれもリンゴ属であり見分け難い。今回の調査で確認できた江戸期の資料のうち画題を記すものは、中井家文書「御殿御絵之間書付」(以下「書付」と記す)と、宮内庁書陵部所蔵「二條御城御指図」(以下「指図(宮)」と記す)に加え、二条城二の丸と本丸の両御殿の内装について記録した「二条御城中御本丸二丸御殿御絵間数之覚」(以下「数之覚」と記す)である(注9)。このうち、本図を花梨としているのは、「書付」のみで、残り2件が林檎としているところから、当面、指定書通りとするものである(注10)。2 杉戸絵の位置・復元の方法取り外し前の杉戸絵の位置は、重要文化財に指定された時点を基準としており、これを「現状位置」と呼ぶこととし、〔図1〕に丸数字で示した。これに対して、杉戸絵を含む重文障壁画が制作された寛永3年当初の杉戸の位置を「当初位置」と呼ぶこととする(注11)。周知のように、寛永3年以来現在に至るまでに、二の丸御殿は規模が縮小され、改修が繰り返されてきた(注12)。改修による影響は勿論のこと、元来取り外し可能な建具であるため、制作当初の位置から動かされた杉戸が存在することも、既に指摘されている(注13)。実際、諸資料間での位置情報に齟齬が多く見られる。杉戸絵の位置情報が記載されている江戸期の資料は、貞享3年(1686)から開始された大規模な城内修理の際に作成されたと考えられる京都府歴彩館所蔵「二條御城御二之丸御指図」(以下「指図(歴)」と記す)が最も古い(注14)。しかし、本指図には杉戸絵の画題が記されていない(注15)。杉戸絵の位置と画題が記載されている資― 269 ―― 269 ―
元のページ ../index.html#281