鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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・復元案料は、現状、「書付」、「指図(宮)」、「数之覚」に限られる。以上の江戸期資料に加え、離宮時代の記録を補助的に活用する(注16)。この中に『二条離宮遠侍之間御襖其他張付絵画縮写図 上』を始めとする明治30年代に制作された9巻からなる障壁画縮写図(以下「縮図」と記す)も含まれる(注17)。しかし、これらは全て規模縮小後の二の丸御殿の状況を示し、作成時期も「指図(歴)」を除くと、江戸後期以降に比定されることから、当初位置を探る上では限界がある。とりわけ改修で影響を受けた棟境や廊下境の杉戸絵が問題となる。これらの当初位置を推定するために、杉戸絵間における画面の連続性の有無や様式の共通性、さらに御殿における画題の配置を判断材料とした。画題の配置については、二の丸御殿内の杉戸配置傾向に加え、同時代の御殿杉戸絵の配置を参照する。二条城本丸御殿及び大坂城本丸御殿は現存しないが、障壁画の制作時期が同時又はごく近いこと、同じ幕府直轄御殿であることから、有効な比較材料となる。二条城本丸御殿については、「数之覚」と「御城内御本丸二之御丸御殿向指図」(中井家文書)(注18)等により、大坂城本丸御殿については、未紹介の『御本丸御殿御天井御張付御杉戸之絵長押之上鴨居之上彫物御間毎数之覚』(大阪天満宮所蔵)と既知の『大坂城本丸御殿内部明細写』(大阪城天守閣所蔵)により、杉戸配置について復元案を作成し〔図2/表2〕〔図3/表3〕に示した(注19)。前述の諸資料を照合したところ、現状位置40箇所のうち21箇所について、資料間で不一致が見られた。そのうちの3箇所については、先行研究により当初位置が既に明らかになっている(〔図1〕⑪⑲⑳)(注20)。このうち、⑪《柳蔦白鷺図/芦雁図》の当初位置が大広間西入側の南端であることは、諸資料に記されている(〔図1〕 )。ここは、寛永当初は行幸御殿へ続く「御次之間」に接続する溜の出入口であり、幕末の図面では「溜」として小空間が遺され、それが近代には、「厠」として活用されていた(注21)。なお「縮図」には、溜側の杉戸絵《柳蔦白鷺図》に関連する金地著色画が描かれている〔図4〕。框の描き方から壁貼付ではなく建具貼付と判断できるが、寛永行幸時の指図では、溜から御次之間への接続部は溜の西面で、改修後は南面になっていることから、建具の当初位置は西面で、改修後に南面へ移動した可能性がある(注22)。いずれにせよ、この画面は現在二条城には伝わっていない。⑲⑳は、離宮時代の資料から現状位置になっているが、江戸期の資料はすべて先行研究の指摘どおり、《花籠図/泊舟白鷺図》(〔図1〕⑲)が黒書院南入側の西寄り(〔図― 270 ―― 270 ―11

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