鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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1〕⑳)に《花籠図》を西側として、《枯木小禽図/柴垣朝顔図》(〔図1〕⑳)が同入側の東寄り(〔図1〕⑲)に《枯木小禽図》を西側として記録している。この位置を将軍と来訪者の動線からみると、精緻で華やかな《花籠図》が、黒書院から大広間へ向かう将軍の目に入るのに対して、特定の来訪者に出入りが許されるという黒書院の、大広間側からの入口に、垣根を擁する《柴垣朝顔図》が来訪者の目に入る位置に置かれていたことになる(注23)。一方、黒書院の、白書院側からの入口付近にあたる北入側の西寄りに《柴垣芙蓉図》(〔図1〕㉑西)が配置されており、黒書院の出入口の二つに垣を描く杉戸絵が描かれていたことになる(注24)。加えて、㉑西に隣り合う㉔は、「指図(歴)」に「杉戸ハメ」、「数之覚」に「北ははめ柴垣芙蓉置上げ金溜」と記されていることから、現状位置㉖の《柴垣芙蓉図》の当初位置と判断できる。㉔は、幕末以降に設置された廊下との境であり、開口部の右横に不自然な幅の壁面がある。この壁面と開口部を含めた幅は2745mmで、㉖の現状の外寸よりは小さいが、画面幅よりは180mm以上大きいため、元は幅3寸程の框をつけてこの位置に嵌っていたと推測できる(注25)。なお、大坂城本丸御殿の白書院、対面所、銅御殿及び二条城本丸御殿の御座之間の各出入口付近に、垣を描く杉戸が見られる(〔図2〕㉑㉒、〔図3〕⑯⑳㉔㉗㉛㊵ )(注26)。以上から、垣根を描く杉戸絵は、奥向きの棟の中心部を囲むように配置される傾向をみてとれる。次に、現状位置㉔の《柳図/躑躅小禽図》が問題となるが、江戸期資料にはこれらの記録が無い。一方、明治期資料や先行研究に、㉔の杉戸絵を《椿図/芙蓉図》(〔図1〕㉕)とするものがある。芙蓉の描き方が《柴垣芙蓉図》(〔図1〕㉑)のそれと共通することに加え、本図の引手の重座の型も同図のそれと共通し、しかも、この型は他には見られないことから、この《椿図/芙蓉図》の当初位置が㉓で《芙蓉図》を東側とすると判断した。この位置は現在戸袋であるが、当初は、西へは溜櫓を経て本丸に、北へは白書院に続く廊下との境に当たる。「指図(歴)」には、この位置に「杉戸二」と記されている。要するに、黒書院西入側の北端の杉戸絵と板絵に、柴垣と芙蓉が一続の画面として描かれていたのである〔図5〕。このように廊下との接続部で三方を囲む杉戸絵を同一画題とするのは、資料上では、大坂城本丸御殿大広間の西北から御成廊下へ接続する所にも見られる(〔図3〕⑧北、⑨南、⑬西)。次に、現状位置㉓《垣手鞠図/柳鷺図》の当初位置が問題になるが、これと現状位置㉚《柳鷺図/垣手鞠図》は、図様が連続する(注27)。現在は4枚になっているが、㉚西の、向かって右面に元から引手が無いことから元は2枚のものを、それぞれ2枚に切断したと考えられる。それでは、元の2枚の大きさはどうなるだろうか。現状の53― 271 ―― 271 ―

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