注⑴二条城研究の基本文献は、林屋辰三郎他編『元離宮二条城』(小学館、1974)である。本書の障壁画解説は、土居次義氏が遠侍と白書院を、武田恒夫氏が式台、大広間、黒書院及び本丸御殿を担当された(313~370頁)。障壁画の研究史については、武田恒夫「二の丸御殿障壁画総論」『國華』1300号(國華社、2004)。以後の二条城障壁画に関連する先行研究の一覧は、『二条城二の丸御殿障壁画ガイドブック』(元離宮二条城事務所、2015)、二条城に関する先行研究の一覧は、『二条城展』(江戸東京博物館他、2012)に所収。⑵御殿における障壁画の画題と技法の階層的な配置については、狩野永納『本朝画史』巻四「狩野家累世所用画法」中の「画壁障図様式法」に記されている。土居・武田1974 注⑴等。⑶現在、杉戸絵原画はすべて御殿から取り外されており、模写杉戸絵41面が御殿に入っているが、観覧通路の確保のため、元の位置ではないところに設置しているものある。大広間北入側、蘇鉄の間境の4面(〔図1〕⑰南)から、その右端に直角に交わる2面(〔図1〕⑭西)に亘って一続きの《桜図》が描かれている〔図12〕。一本の八重桜の幹や枝は、画面の上部を突き抜け、杉戸5面に亘って枝を伸ばす桃山式の巨木構成を採る。同じく杉戸6面で構成される大広間東入側の《柏鳩図》(〔図1〕⑫北、⑨⑩西)が2面と4面で各1本ずつ柏を描くのとは対照的である。《柏鳩図》は、4面に描かれる柏の樹形が、三の間西面襖の松によく似ていることから、鬼原氏も指摘されるように探幽筆と考えられる(注34)。一方、鬼原氏は、《桜図》について「尚信の筆を思わせる」とされるが、桜の樹形は、大広間四の間の東面に描かれる松の大樹と類似するとともに、画面上部から向かって左下へ屈曲しながら降りてくる花の枝ぶりは、山楽筆《紅梅図》(大覚寺蔵)にも通じる〔図13〕。山楽本人のような伸びやかさが見られないとしても、この画面は、山楽の周辺画家と想定できる(注35)。むすびにかえて本報告では、二の丸御殿杉戸絵の画題を確定し、当初の位置を可能な限り復元した。その過程で、黒書院の垣を描く杉戸絵の配置に見るように、寛永当初、杉戸絵においても意図的な画題の配置が行われていたことを明らかにした。さらに、式台や大広間において、山楽筆と目される室内障壁画の周辺に、本人及び周辺の画家が関わっていたことを指摘した。今回の調査で、杉戸絵は室内障壁画以上に、絵毎の作風、はっきり言えば巧拙の落差が激しいことも確認できたが、このことは、短期間で大量の障壁画を制作しなければならなかった現場において、主要画家を中心にした複数のグループが、それぞれの担当箇所で、杉戸絵の位置を考慮して分担を割り振ったことを示唆している。― 274 ―― 274 ―
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