鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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名古屋城本丸御殿上洛殿では、上洛殿から対面所に向かう将軍の目に入る位置に《花車図》が配置されている。なお裏面も《花桶図》。『名古屋城本丸御殿障壁画集』(名古屋城管理事務所、1990、84~93頁) 寛永当初は牡丹の間北東部に伺候之間と接続する部分があったが、「指図(歴)」はこの位置を 二つの《柴垣芙蓉図》㉑と㉖の図様が連続することは、武田氏によって指摘されていたが、当⑷元離宮二条城2015 注⑴に掲載。⑸土居・武田1974 注⑴⑹武田2004、47頁 注⑴⑺手鞠と紫陽花の混同は遠侍でも見られ、《柳手鞠花図》(〔図1〕③北)を、土居1974は『二條離宮記』(宮内庁書陵部所蔵、明治25年の調書と聞き書きに基づき、明治27年に作成)と同じく、《柳ニ紫陽花図》とされているが、樹高から手鞠と見るべきである。⑻武田2004では、遠侍の《芍薬図》(〔図1〕①南)を《牡丹図》とされていたが、葉の形から、諸資料の記すとおり、芍薬とみるべきである。⑼「書付」は谷直樹編『大工頭中井家建築指図集 中井家所蔵本』(思文閣出版、2003)に所収。「指図(宮)」は『元離宮二条城』1974に所収。「数之覚」は京都大学附属図書館のデジタルアーカイブで公開されている。本資料には、室内の装飾について、天井の仕様、文様、一部表具の仕様が記載され、本丸、二の丸両御殿の室内装飾の全体像を窺える資料である。表紙から大工頭中井家で作成された控であることが確認できる。⑽土居氏以前に《海棠図》とする資料は、『二條離宮図』(宮内庁書陵部所蔵、「明治二十二年度調之」とあり。)である。⑾寛永当初の名称は、黒書院は「小広間」、白書院は「御座之間」であるが、本報告では、現在の呼称で表記する。⑿川上貢「二条城の規模と建築の変遷」(『元離宮二条城』1974所収)、川上貢「二条城建築論」『國華』1301号(國華社、2004)⒀土居・武田1974、武田2004 注⑴⒁中井家文書。『元離宮二条城』1974所収 注⑴。⒂貞享の修理以前に移築された部分は記載無し。また貼紙によって原図が確認できない部分がある。⒃『二條離宮記』注⑺、『二條離宮図』注⑽⒄宮内庁書陵部所蔵⒅谷2003所収 注⑼⒆大阪天満宮所蔵資料の表紙には「上田孟孝秘控」と記されているが、この人物については明らかにしえていない。本資料は室内障壁画、欄間彫刻等も記録されており、今後の研究で、二条城と比較しつつ詳細な報告を行いたい。なお、二条城本丸御殿、大坂城本丸御殿ともに、江戸期に改修しているため、記録されている杉戸位置を当初位置と確定はできない。⒇武田1974、352頁 注⑴ 「二條離宮図」注⑽、「太政官代図」(宮内庁書陵部所蔵) 寛永行幸時の配置を示す指図として「行幸御殿其外古御建物幷当時御有形御建物共 二條御城中絵図」(京都大学附属図書館所蔵)等を参照した。「遣戸四内張付」と記す。初位置について武田氏は南入側を想定されていた。武田1974、352頁 注⑴― 275 ―― 275 ―

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