㉖ 「浪華名所図屏風」の基礎的研究研 究 者:成田山文化財団成田山霊光館 学芸員 猪 岡 萌 菜はじめに湯木美術館蔵「浪華名所図屏風」〔図1、2〕は、17世紀末期の大坂を描いた八曲一双の中屏風で、右隻に住吉大社、四天王寺、紀州街道と郊外の田地、寺町、道頓堀の芝居小屋を配し、左隻には画面を左右に横切る土佐堀川を中心に、そこに架かる橋や周辺の町、大坂城を描く。右隻が春夏、左隻が秋冬と、画面左に向かって四季が移ろう。日本料理店の吉兆が旧蔵し、昭和62年(1987)の湯木美術館開館に際し同館所蔵となった。本屏風については末廣幸代氏の資料紹介があり、画中景観や17世紀末頃という景観年代が提示されている(注1)。この時期の大坂を描く作例は本屏風の他に知られておらず、史料的にも貴重だが、現状、制作背景や享受者については具体的に言及されていない。そこで本稿では、「浪華名所図屏風」制作に関わる諸問題を考えるための基礎的考察として、景観年代及び制作年代を改めて精査するとともに、本屏風を特徴付ける画面構成と先行作例との関係について論じる。1 景観年代と制作年代従来、本屏風の景観年代は17世紀末期頃とされてきたが、右隻の道頓堀の芝居小屋に着目すると、わずかに下り、17世紀最末期から18世紀初期と考えることができる。加えて、制作年代についても若干の私見を提示する。右隻第7扇の2つの芝居小屋は、櫓の紋から手前が嵐三右衛門座、奥が片岡仁左衛門座である〔図3〕(注2)。生没年や襲名時期から片岡仁左衛門は初代(1656-1715)と見てよいが、嵐三右衛門は初代(1635-1690)、二代目(1661-1701)、三代目(1697-1754)のいずれか判然としない。元禄11年(1698)刊の浮世草子『新色五巻書』五の巻には「片岡仁左衛門は今年よりの座本」とあり、前後の年の評判記を参照すると、それ以前の初代片岡仁左衛門は京や大坂の他の座本のもとでの出勤が確認できる(注3)。元禄12年は荒木与次兵衛との相座本、翌13年は音羽次郎三郎座に出勤し、以降は宝永5年(1708)まで大坂で座本を勤め、翌6年は嵐三十郎座に出勤、さらに翌7年以降晩年は再び活動の場を京に移している。以上から、相座本の年を除くと、片岡座の櫓が道頓堀に存在するのは― 280 ―― 280 ―
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