鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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元禄11年、同14年から宝永5年までとなる。またここから嵐三右衛門についても、元禄3年に没した初代ではなく、二代目か三代目であることが了解できる。これをふまえ、嵐、片岡両名が座本か否かをまとめたのが〔表1〕である。元禄14年11月に二代目嵐三右衛門が没すると、二代目の子が宝永元年11月に8歳で三代目嵐三右衛門を襲名し座本となるまで、嵐座の櫓が上がらない空白期間が2年あり、道頓堀に嵐座と片岡座が併存するのは元禄11年、14年、宝永元年から同5年に限られる。以上から、元禄11年を上限、宝永5年をおおよその下限とし、従来説からはやや下げて、17世紀最末期から18世紀初期を本屏風の景観年代と考えることができる。制作年代については、復元表現は可能でも、ある時点に初めて登場したものを登場以前に描くのは不可能だという原則に基づくと、やはり元禄11年を本屏風制作の上限と判断できよう。ここで、嵐座の看板にも着目したい〔図4〕。絵看板には虎が描かれ、まねき看板には役者名が並ぶ。文字は極小で、可読性がどれほど期待されていたかは検討の余地があるが、右から2番目は「岡田左□(馬ヵ)」と読めないだろうか。元禄13年の『姿記評林』には「岡田左馬」の名が見え、これは若女方の岡田左馬之助(生没年不詳)を指すが、他に左野之介や三左衛門など幾度か名を改めたようである(注4)。先に挙げた元禄11年刊『新色五巻書』五の巻には、以下の記述がある。岡田左野之介がおふくの狂言をみました、(中略)此あいてと尋ぬるに、それは嵐三右衛門、(中略)其仔細は、此狂言を山下座にとつて、嵐が替を七三郎がしたれど、中々つづくものではない、おふくのかはりを吉澤あやめ、是も岡田ほど思ひ入なし、(中略)難波にてはやるべきは市川團十郎なり、(中略)あらき事は坂田の金平に虎を引さかせ、あさいな・はんくわいに象の首をぬかせ、大友の真鳥・藤原のすみともなどが、犬猫をにらみ殺す勢ここから、元禄11年に岡田左馬之助(左野之介)と二代目嵐三右衛門が共演し好評を博したこと、大坂では初代市川團十郎が創始した荒事が好まれたことが分かり、荒事芸のひとつとして坂田金平が虎を引き裂く演目が例示される(注5)。看板の演目を特定するには至らなかったが、元禄10年『うしの年京大坂役者ともぐい評判』の二代目嵐三右衛門評には「けだ物つかふ事が成ますか」とあり、何らかの動物を用いた演目の存在が確認できる。画中の芝居小屋の表現は、このような大坂の人々の芝居の好みや、当代の人気役者の存在を前提としたものと読み取れるのであ― 281 ―― 281 ―

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