る。看板の名が岡田左馬之助であれば景観年代は元禄期後半に絞ることが可能だが、文字の判読が不確定的であるため、あくまで可能性の指摘に留めたい。2 右隻の画面構成大坂を描く屏風絵は本屏風以前にも制作され複数が今に伝わるが、右隻に住吉大社と四天王寺、左隻に大坂城下を描く組み合わせは本屏風をおいて他にない。一方で、右隻の住吉大社と四天王寺は、「四天王寺・住吉大社図屏風」との類似性をうかがわせる。また、左隻の大坂城下を捉える北からの視点設定も類例が少なく、他作品の多くが西に視点を固定する中、八曲一隻の「豊臣期大坂図屏風」(エッゲンベルク城蔵)が視点を北に置く点で共通する。このように本屏風の各隻には先行作例との共通点や相違点が認められ、影響関係の有無の検討が必要であろう。よって本章と次章で、両隻の画面構成を分析する。谷直樹氏は襖絵等も含めた大坂を描く大画面作品について、視点の位置や描かれる景観の範囲等を整理しており、都市図の構図を、大坂城や城下町の変遷と関連付けて論じている。概略をまとめると、豊臣期に南北に展開していた大坂の都市軸は、船場の開発や川口の港整備、大坂夏の陣後の大坂三郷の完成等を経、東西へと転換する。都市図ははじめ南北のランドマークである四天王寺の塔と大坂城天守を画面の左右に配する構図で描かれたが、都市軸の変遷に加え、寛文5年(1665)に大坂城天守が焼失し、ランドマークとしての地位が低下したことを受け、淀川や川口の港、中之島が都市の繁栄の象徴を担っていく。そうした中で淀川越しに大坂城や船場を描く構図が新たに登場したとし、「浪華名所図屏風」をその典型に位置付けている(注6)。都市図の構図に関する谷氏の指摘は示唆に富む。しかし「京・大坂図屏風」(サントリー美術館蔵)や新出の「浪花名所図屏風」(個人蔵)のように、「浪華名所図屏風」以降も江戸期を通じて視点を西に設定した都市図が描かれており、北からの俯瞰構図は定型化していない。その意味で「浪華名所図屏風」左隻の視点設定や構図には特異性が認められ、都市構造の変化に加え、北から見た都市を描く何らかの理由があったと考えるべきであろう。では、右隻から画面構成を確認していく。右隻は第1扇から第6扇にかけて、西から俯瞰した住吉大社と四天王寺を大きく配する。これは先述の通り、「四天王寺・住吉大社図屏風」の左右の隻を同一画面に収めたような構図で、ふたつの寺社間の広大な空間は金雲と松林で処理している。一見先行作例に繰り返し描かれてきた名所をコラージュ的に配置したようだが、多くの― 282 ―― 282 ―
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