鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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ら第3扇は川口周辺以外を覆うことで、様々な船が行き交う川へと鑑賞者の視線を誘導する。既に指摘した通り、大坂を北から俯瞰する構図で描く作例は少ないため、視点設定の着想限がどこにあるのか検討してみたい。本屏風と同じ北からの構図を取るものに、「豊臣期大坂図屏風」がある。17世紀中期の制作とされるこちらは第6扇に慶長元年(1596)築の極楽橋が描かれており、この橋によって大坂城の正面は一時北面していた。先学は、北からの視点設定は、この時の大坂城を正面から描くためのものであると指摘し、そのような構図は大坂城が北面していた時期にしか成立し得ないこと、よってこの構図は17世紀半ばに新しく創出されたのではなく、何らかの先行作例や粉本が存在した可能性を提示する(注10)。ここから、「豊臣期大坂図屏風」や「浪華名所図屏風」以前に北からの視点で大坂城と城下を描いた先行作例の存在が仮定されるわけだが、「浪華名所図屏風」の場合には、豊臣期には中心モチーフであった大坂城が金の霞たなびく無人の姿で描かれ、画面に占める割合も小さくなる。代わりに土佐堀川の位置を画面中段に押し上げ、川とそこに架かる橋、周辺に展開する船場等の町の風景、職人や店棚の様子、武士の行列や船の描写にスペースが割かれるのである。加えて、「豊臣期大坂図屏風」には逆勝手の方向性が与えられるが、「浪華名所図屏風」は順勝手という違いがある。順勝手を採用することで画面右下に広い空間が確保でき、川口をより広々と描くことが可能となるが、川口から土佐堀川の描写に比重をかける工夫が勝手の変更にも表れていると考えるべきだろう(注11)。先学の指摘通り、大坂城のランドマークとしての地位の低下と都市の繁栄を象徴する場の変遷は、画中に占める割合にも顕著に表れている。北からの俯瞰構図は土佐堀川周辺の景観を、横長の画面を最大限活かして描くのに最適であり、都市の発展と都市軸の変遷に加えて、都市のどの部分にフォーカスするかという問題関心のもと、既存の北からの俯瞰構図を用いつつも、構図や筋勝手の向きに独自の改変を加えている。このように、左隻は土佐堀川を中心とした都市風俗を描くことに注力していることが画面構成からも明らかで、画中に占める割合を増加させた町々には、店棚や諸職人の生業が精細に描写される。さらに左隻には、商人や職人以上に実に多くの武士が描かれており、大坂城下を描いた他作例には見られない武士の行列が、2つ描かれているのである。― 284 ―― 284 ―

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