鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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注⑴ 末廣幸代「元禄の大坂を描く─浪華名所図屏風─」『大阪の歴史と文化財』4、大阪市文化財⑷ 野島寿三郎『歌舞伎人名事典』日外アソシエーツ、1988年、「岡田三左衛門」の項。⑸ 列挙される演目は、元禄13年『役者談合衝』の初代市川團十郎評に「金平、朝比奈、焚噌などになられ、大盃で、軍半に、酒を呑ふだり、門を破り、虎を引さくたぐひよく」とあるのと多く共通し、團十郎が得意とした荒事の演目であることが分かる。⑵ 注⑴は手前を角座、奥を「中座か」とするが、角座と中座であれば位置関係が逆になるため再⑶ 『新色五巻書』は国書刊行会編『江戸時代文芸資料』第5、国書刊行会、1916年所載。また、⑹ 谷直樹「「浪花名所図屏風」発見の意味」『新出「浪花名所図屏風」の研究』、関西大学なにわ⑺ 例えばサントリー美術館蔵のふたつの「四天王寺・住吉大社図屏風」は、右隻の住吉大社は北⑻ 筋勝手の概念は都市図においては特に洛中洛外図の町筋の傾斜方向を示す際に用いられる。傾斜の向きのどちらを順勝手、逆勝手とするかは意見が分かれるが、本稿では筋勝手の違いを洛中洛外図の系統分類に用いた片岡肇氏の定義に準ずる(片岡肇「洛中洛外図屏風の類型について(一)」『京都文化博物館紀要 朱雀』第9集、1997年)。⑼ 脇坂淳氏は六曲一隻の林家本「大坂市街図屏風」(大阪城天守閣蔵)が元は一双の左隻に該当第6扇の行列の人足が持つ挟箱や弓矢立には、三つ葉葵を思わせるような紋が金泥で描き込まれている〔図8〕。現時点での断定は避けるが、高位の武士の行列を意識したものである可能性が高く、既に述べたような表現が何故なされたのか、本屏風の制作と享受に関わる人々のまなざし、都市観を考えるひとつの糸口となるだろう。おわりに「浪華名所図屏風」について、以下3点を確認してきた。第一に、景観年代は17世紀最末期から18世紀初期、制作年代の上限は元禄11年である。第二に、右隻には新しく台頭してきた名所である道頓堀を加え、左隻は土佐堀川を中心とした景観にフォーカスするような工夫が見られるなど、既存の構図や図像を用いながら新たな画面を構成している。第三に、本屏風の武家の表現には、紋などをそれと分かるように描く一方で、あえて権威的に表現しないという一見矛盾するような姿勢が見られる。本屏風の制作背景のより詳細な考察は、特に今回提示した3点目の内容の検討もふまえて今後の課題としたい。協会、1999年検討を要する。詳しくは別の機会に論じたい。本稿で参照した歌舞伎評判記はいずれも歌舞伎評判記研究会編『歌舞伎評判記集成』第2~4巻、岩波書店、1973年所載。大阪研究センター、2016年から、左隻の四天王寺は南から捉えたもの、西から捉えたもの、それぞれに異なる。― 286 ―― 286 ―

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