マーム・シーア派聖地─ナジャフ、カルバラー、カーズィマイン、サーマッラー(注25)─への参詣の実態に関して言えば、史料制約も手伝い未だに殆ど解明されていない(注26)。また、それらの地域にある聖者廟への宗教的寄進の実態についても、ナジャフのイマーム・アリー廟に献呈されたサファヴィー朝期のテキスタイルについて紹介したメフメト・アーオウルのモノグラフ(1941年)以来、目立った進捗を見せていない(注27)。かかる研究状況に鑑み、本研究は今回の調査で見出された《ドーハ燭台》を、サファヴィー朝領民による、オスマン朝下のイラクの十二イマーム・シーア派聖者廟への宗教的寄進行為の存在を裏付ける新たな史料として提示したい。サファヴィー朝領民にとって、宗派的・政治的に敵対するオスマン朝下にあったイラクの十二イマーム・シーア派聖者廟に巡礼し、寄進を行うことは決して容易いことではなかったと見られる(注28)。では、《ドーハ燭台》の寄進者「カースィム・アリーの息子アガー・ワリー・ハーン」の、イマーム・ムーサー・カーズィム廟に対する宗教的寄進のモチベーションとは何だったのであろうか。言い換えれば、何故彼は、他の十二イマーム・シーア派聖者の廟ではなく、第7代イマームのムーサー・カーズィムの廟を寄進先として選択したのであろうか。ここで、ムーサー・カーズィムが、十二イマーム・シーア派を国教とするサファヴィー朝の歴代君主達とその領民達にとって、最も重要な聖者達のうちの一人であったことを指摘しなくてはなるまい。というのも、サファヴィー家の歴代君主は、自らを、系譜を遡れば預言者ムハンマドの血統に連なるイマームであるところのムーサー・カーズィムの末裔である、と主張し、その系譜を歴史書の記述(注29)や宗教施設・墓石の銘文(注30)などによって流布させることによって、自身の統治の正当性を世に顕示していたのである。サファヴィー家の出自をムーサー裔とするこの系譜については、サファヴィー教団(サファヴィー朝の母体となった神秘主義教団)の創始者であるサフィー・アッ=ディーン・イスハークの時代に執筆された聖者伝『清浄の真髄 afvat al-afā』(1358年)においては言及がないが、後世の意図的な系譜操作によって、1460年代にはイラクで成立していたことが近年の研究で明らかになっている(注31)。《ドーハ燭台》が同廟に宗教的寄進されたと考えられる1600年頃もしくはそれ以降には、既にこの系譜は、十二イマーム・シーア派化政策を進めるサファヴィー朝領民の間に広く根付いていたと見て良いだろう。やや時代は下るが、1640年以降33年間に渡りオスマン朝とその周辺世界を旅したエヴリヤ・チェレビ(1685年頃没)は、『旅行記 Siyāat-nāmah』において、イマーム・ムーサー・カーズィム廟に対し、「ペルシャ中が供物を送って」おり、その内部には「筆舌に尽くし難いほど多くの洗練された吊るし飾り、シャンデリア、鍍― 18 ―― 18 ―
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