鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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を兵士の腹に突き刺している。さらにオリジナル作品の中景左に描かれた円筒形の建物では、円状の文字盤から半身を乗り出した「死」が下方を指さしているのに対し、コピー作品では斜め上方を指さしている。C・キューリとD・アラート両氏の主張に基づき、2人の息子たちがピーテル1世の残したカルトン(実物大の下絵)ないし構想段階のモデッロを用いてコピーを制作したとするならば、これらのオリジナルとコピーとの差異となっている部分は、残されたカルトンやモデッロには反映されていなかった部分、つまりピーテル1世がそれらよりも後の段階で付け加えたか修正をおこなった部分ということになる。先行研究においてしばしば指摘されてきたように、おそらく兄弟にはオリジナルの《死の勝利》を直接目にする機会がなかったのだろう(注13)。ピーテル2世によるコピー作品の内、例えばピーテル1世の《謝肉祭と四旬節の喧嘩》(1559年;ウィーン、美術史美術館蔵)や《東方三博士の礼拝》(1564年;ロンドン、ナショナル・ギャラリー蔵)のコピーでは、構図やモチーフだけでなく色彩までほぼ正確に再現されていることから、コピーを制作するにあたり、ピーテル2世がオリジナル作品に対する正確さを蔑ろにしていたとは思われない(注14)。従って、全体の印象を大きく左右する色彩や、複数のモチーフに差異が生じている《死の勝利》については、そもそも兄弟に完成したオリジナル作品の詳細を知る術がなかったと考えられるのである。次に着目したのが、「各コピー間に生じている相異」である。特に、作品の最前景右に描かれた祝宴の場面に注目すると、最も早い1597年に制作されたヤンのグラーツ版、そして1608年にピーテル2世の工房で制作されたバーゼル版では、テーブルの周囲に集まった人々の衣装がオリジナル作品から大きく変更されている。一方、最も遅い1626年に制作されたピーテル2世の旧クリーブランド版の衣装は、色彩は異なるものの、オリジナル作品に比較的忠実に描かれている。3点のコピーに共通する差異については、兄弟が共有し参照したカルトンないしモデッロに基づくものであると考えられるが、この3点のコピー間に生じている差異はどのように説明できるだろうか。考え得るのは、コピーの制作にあたり兄弟間で作品制作に関する何らかの情報交換がおこなわれた可能性である。つまり、ピーテル2世には先に制作されていたヤンのコピーを見る機会があり、そこでヤンが試みていたモチーフの改変に触発されたために、1608年のバーゼル版において自らも祝宴の場面の周囲に集まる人々の衣装を描き変えたのではないだろうか。ヤンがコピーを制作した1597年には、ピーテル2世の私生活に経済的な問題が生じ、兄弟間で遺産の譲渡がおこなわれるなど、二人の間に往来があったことが推測される(注15)。また、ヤンの― 293 ―― 293 ―

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