・《死の勝利》以降の作品頭には2本の角のようなものがついているが、これは当時ヴェネツィアを中心とした北イタリアの女性たちの間で流行していた髪形だという(注20)。そして彼女が着ている扇形の白いレースの襟のついたドレスは、明らかに《死の勝利》に描かれたものに類似している。ヤン自身がイタリア滞在中にヴェネツィアを訪れたという記録はないものの、当時は各国の地理や風俗を紹介するコスチューム・ブックが数多く出版された他(注21)、ヴェネツィアで活動した画家ハンス・ロッテンハンマーなどとの交流から、同地の最新のファッションの知識を得る機会は十分にあっただろう(注22)。さて、この最新のファッションに身を包んだ女の姿は、この作品以降、風俗画のみならず神話主題の作品や宗教主題の作品にも描かれるようになる。例えば、上記作品と同年の1594年に制作された《アエネーイスとシビュラ》〔図6〕には、亡き父に会うため、巫女シビュラの案内で異形の悪魔のうごめく地下へと下っていくアエネーイスが描かれているが、中景の悪魔に苛まれる人々の中に、白いレースの襟に青色の袖のついた黄色いドレスを着た女が描かれている。彼女は助けを求めるように両手を胸の前で組み、体をひねってアエネーイスの方を見上げる様子である。古代風の衣をまとった前景のアエネーイスとシビュラとは対照的に当世風の鮮やかな黄色いドレスを着た女は、ごく小さなモチーフであるにもかかわらず、作品の暗い色調の中でひときわ強い存在感を示している。場面設定の整合性について考えたとき、物語の展開する世界の風俗を意識して描かれている主要な登場人物たち、すなわち典型的な古代風の衣をまとったアエネーイスやシビュラと、華やかな当世風のドレスを身に着けた女との間には、明らかに時代的、地理的な齟齬が生じている。同様のことは《キリストの冥界下り》(1597年;デン・ハーグ、マウリッツハイス美術館蔵)をはじめ複数の作品においても言える。そしてこの齟齬によって、ドレスの女は、古典や聖書の物語に「世俗性」や「同時代性」を付加し、作品を鑑賞する人々のいる現実の世界へと物語の地平を延長する極めて重要なモチーフとして機能しているのである。さて、ヤンがグラーツ版《死の勝利》を制作した翌年の1598年、この黄色いドレスの女のモチーフは、ヤンの作品においてより重要な役割を担うようになる。《若きトビアスのいる風景》〔図7〕、《山上の垂訓》(ロサンゼルス、J・ポール・ゲティ美術館蔵)、《説教をするキリストのいる湖岸の風景》〔図8〕の3作品は、いずれも聖書の物語を描いた作品で、小さな画面に描かれた奥行きのあるフランドルの風景と精緻― 296 ―― 296 ―
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