鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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に描写された人物像によって、ヤンの名声を決定づけた作品とされている。いずれも主題である聖書の物語は広大な風景と人々の営みの中に埋没し、一見してフランドル地方の日常の光景を描いた風俗画であるかのようにも見える。これらの作品をよく見てみると、いずれも前景ないし中景に、やはり鮮やかな黄色いドレスの女が取り巻きとともに描かれているのである。《若きトビアスのいる風景》と《山上の垂訓》では、彼女に付き添う男が聖書の物語の展開している方向を指し示し、黄色いドレスの女と観者の視線を直接的にその出来事へと導いている〔図7-a〕。一方、《説教をするキリストのいる湖岸の風景》では湖岸に泊まった船の上から群衆に向けて説教をするキリストに背を向ける代わりに、あたかも観者の存在を意識しているかのように画面の外に視線を向けることで、やはり観者を作品の中に誘導している〔図8-a〕。市井の人々が日常の暮らしを営む風景の中で、最新のファッションに身を包んだ優美な女の姿は当時の観者の目を引き付けたに違いない。しかしそれは、周囲の農民や漁師、商人、市民、異邦人との対比から明らかなように、単に彼女の華やかな出で立ちのためだけではなく、観者にとって彼女が身分的に最も近しい存在だったからではないだろうか。それゆえ、観者はその姿に自らを投影し、あたかもその場に居合わせているかのような、より臨場感のある鑑賞体験を得ることが可能になったのである。すでに述べた通り、若くして画家としての高い評価を得たヤンの作品は、王侯貴族などの身分の高い人々や、経済的に成功を収めた裕福な人々に収集された。作品の世界と観者とを仲介する黄色いドレスの女は、そのような作品の受容者の存在を強く意識した、画家による一種の戦略として導入されたと考えられるのである。4.《死の勝利》における実践以上の作品を念頭に、グラーツ版《死の勝利》に描かれた女を見てみるならば、特徴的な角状の髪型が髪飾りへと変更されているものの、まさに本コピー制作の前後に他の作品に繰り返し描かれた黄色のドレスの女の類型であることは明らかである。そしてヤンがグラーツ版《死の勝利》の以前の作品において実践し、以降の作品においてさらに発展させた黄色いドレスの女の役割を鑑みるなら、彼が父作品に描かれたモチーフを、あえて自身の時代に合ったものへとアップデートした目的が自ずと浮かび上がってくるだろう。それはつまり、《死の勝利》というフィクションの世界に現実味を付加するとともに、観者を作品の世界に導き入れるためだったのであり、逆説的に言うならば、ピーテル1世の描いた青いドレスの女に同様の役割を読み取ったがゆ― 297 ―― 297 ―

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