えの、意図的な改変だったと考えられるのである。1596年、ヤンは7年間に渡るイタリア滞在で、有力者や才気溢れる画家たちと交わり、最新の美術や洗練された文化を学んで持ち帰ったに違いない。そんなヤンにとって、制作からすでに35年の時を経ていた父ピーテル1世の《死の勝利》に描かれた若い女の姿が、自身の《死の勝利》に相応しくないように感じられたであろうことは想像に難くない。しかしそれは、単にその姿が「時代遅れ」であったためではないだろう。むしろ彼は、オリジナルの《死の勝利》においてこのモチーフが果たしていた本来の役割、つまり作品に現実性を付加し、観者と作品とを仲介するという役割を見て取っていたからこそ、35年を経たファッションの変化によってその役割が十分に果たされなくなったモチーフに改変の必然性を感じたのではないだろうか。つまり、ヤンは1562年に制作されたピーテル1世の《死の勝利》に登場するモチーフの時制を1597年という時代に一致させることで、ピーテル1世が青いドレスの女に意図していた機能を再び取り戻そうとしたのである。そのように考えると、農民や市井の人々の暮らしを描き、「農民画家」と称されたピーテル1世の絵画作品において、この《死の勝利》に描かれた当世風の衣装を身に着けた優美な若い女が、極めて珍しいモチーフであることが改めて認識される。イタリアで画家としての確固とした手ごたえと展望を得てアントウェルペンに帰国したヤンが、帰国早々に父の《死の勝利》をコピーした理由は定かでない。しかし後年、ヤンが父作品のコピーを次第に制作しなくなったこと、そして制作した《死の勝利》のコピーを、おそらく亡くなるまで自身の手元に置いていたという事実から、アントウェルペンで活躍した父ピーテル1世の作品が、ヤン自身が同地で築かんとしていた画家としてのキャリアの原点として、貴重な研究材料となったことが推察される。ヤンは父ピーテル1世の《死の勝利》を注意深く研究し、個々のモチーフが果たす役割を十分に理解した上で作品を再現するとともに、そこから学び得たものをやがて自らの作品において発展させた。いわばヤンにとって、父作品のコピーの制作は一種の実験場だったのではないだろうか。まとめ2人の息子たちによるコピー作品の分析をおこなったところで、今一度、オリジナルの《死の勝利》について考えてみたい。ヤンはピーテル1世の作品のコピーを制作するにあたり、右前景の女を同時代的な姿へとアップデートした。それはまさに、オリジナルの《死の勝利》に描かれた青いドレスの女もまた、当時の観者の目に、自ら― 298 ―― 298 ―
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