鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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注⑴本作品についての主要文献については次を参照。Peter Thon, “Bruegelʼs The Triumph of DeathReconsidered,” in: Renaissance Quarterly, vol. 21, no. 3, 1968, pp. 289-299; 森洋子『ブリューゲル全作品』、中央公論社、1988年、290-292頁; Walter S. Gibson, “Bruegelʼs Triumph of Death: A SecularApocalypse,” in: Pieter Bruegel the Elder: Two Studies, Spencer Museum of Art, University of Kansas,1991, pp. 53-86; James I. W. Cororan, (ed.), The Triumph of Death by Pieter Brueghel the Younger, exh.cat., Antwerpen: Museum Mayer van den Bergh, 1993; Larry Silver, “Ungrateful dead: BruegelʼsTriumph of Death re-examined,” in: Excavating the Medieval Image: Manuscripts, Artists, Audiences:Essays in Honor of Sandra Hindman, Ashgate, 2004, pp. 265-278; Margaret Sullivan, “LivingDangerously,” in: Bruegel and the Creative Process, 1559-1563, Ashgate, 2010, pp. 143-173.に近い存在として映ったことの証ではないだろうか。従来、この恋人たちは、最前景に横並びで描かれた「王」、「枢機卿」、「母子」、「巡礼者」、「兵士」、「道化」とともに、いかなる身分の者にも「死」が一様に訪れることを表していると解釈されてきた。しかし同時に、ピーテル1世の貴重な作品を見ることのできた一部の限られた観者たちにとって、自らに最も近い存在である恋人たちのモチーフは、複雑に構想された作品の導入部としても機能しただろう。そして彼らを介して作品の世界へと足を踏み入れた観者たちは、背後で繰り広げられる壮絶な死の戦いに圧倒されるとともに、そのことに気付かない恋人たちの姿に自分自身を顧みたのではないだろうか。ピーテル1世の《死の勝利》は、どのような人々に、どのように鑑賞されたのか。当初の注文主や所有者の明らかでない本作品において、画家と受容者との相互的な関係について考察することは困難である。しかし、その創意に対し同時代人たちからこの上ない賛美を送られたピーテル1世もまた、自身の作品の受容者を多分に意識しながら作品を制作したはずである。本稿で取り上げた、ヤンが《死の勝利》のコピー制作において実践した意識的な改変は、この問いに切り込むための重要な手掛かりとなるだろう。― 299 ―― 299 ―⑵マイケン・ヴェルフルストは、イタリアの商人であり著述家であったルドヴィコ・グイッチャルディーニの著書『全ネーデルラント地誌』において、ブラバントの4人の優れた女流画家の内の1人として名が挙げられている。Lodovico Guicciardini, Descrittione di tutti i Paesi Bassi,Antwerpen, 1567.⑶2人の息子たちは、カーレル・ファン・マンデルの『画家の書』の「ブリューゲル伝」において、「Hy liet nae twee sonen, die mede goede Schilders zijn,... (彼は2人の息子を遺した。どちらもよい画家である。)」と紹介されている。Karel van Mander, Het schilder-boeck, Haerlem, 1604; カーレル・ファン・マンデル『「北方画家列伝」注解』尾崎彰宏他編訳、中央公論美術出版、2014年。また2人の年譜については森洋子氏の論文を参照した。森洋子「ピーテル・ブリューゲルと二人の息子の年譜」『明治大学教養論集』406巻、明治大学教養論集刊行会、43-80頁、2006年。

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