ていた可能性を提示したいと思う。1.来迎図における天童の役割持幡童子が描かれる来迎図としては、12-13世紀とされる奈良・法華寺蔵の国宝「阿弥陀三尊及童子図」3幅のうち持幡童子図、また、この写本と思われる室町16世紀の個人蔵「持幡童子像」、14世紀初頭の東京国立博物館本〔図3〕、福島県立博物館本(会津若松・高厳寺旧蔵)、埼玉・勝願寺本〔図4〕、鎌倉13世紀の岐阜・新長谷寺蔵の重文「阿弥陀如来立像及び厨子」の扉絵が挙げられ、それぞれに1体または2体が描かれている。これらの持幡童子を仔細に見れば、東京国立博物館本のように雲上の阿弥陀聖衆に列し、聖衆の案内・先導者として描かれるもの〔図5〕、福島県立博物館本のように、聖衆より先に往生者のもとに到着し来迎を予告する様子のもの〔図6〕、あるいは埼玉・勝願寺本のように、乗雲ではなく地面に着実に足を降ろし、引接されるべき往生者の居場所に旗印を立て聖衆に知らしめるかのごときもの〔図7〕と、その役割にはいくぶんか異同があるように見受けられる。先に紹介したように、こうした持幡童子は天童として解釈されているが、天童の役割については日本の往生伝を参照した研究があり(注6)、往生の示唆、来迎の先導、浄土からの来迎、その他さまざまな役割が確認されている。ただここで注意を払うべきは、聖衆の先導というより来迎時の標識となる役割は往生伝では確認できないこと、天童は西方極楽浄土からの使者・来迎に限らない点である。〔表1〕に挙げた中国の往生伝やその影響を受けたとみられる1-4の源信伝では、「天童」は極楽浄土ではなく兜率天からの使者である。天童とは明記されないものの、1-5、1-6、1-7にみられる童子も同様である。「兜率天からの天童」は、『法華経』「普賢菩薩勧発品」に説く兜率天上生にも由来するであろうが、臨終に際して弥勒菩薩が「諸天子」とともに来迎することを説く『観弥勒菩薩上生兜率天経』(『弥勒上生経』)の影響も当然考えられる。文献にみられる天童をすべて『法華経』に帰属させることはできないため、天童の属性についてより広範に探求してみる必要があるだろう。2.天童の本地〔表2〕に挙げたように、日本の往生伝や説話に登場する天童には、神仏の使者である例、すなわち本地が想定されている例が散見される。11世紀前半の『法華験記』― 306 ―― 306 ―
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