では、天童の正体を賀茂明神の遣いや十羅刹女とする例がみられる。さらに鎌倉以降も『源平盛衰記』では、帝の夢に比叡山の薬師如来の使者として2天童が登場する。また、13世紀の『平家物語』においては、天童が度々登場して活躍をみせる。たとえば、那智の滝で苦行し息絶えた真言僧・文覚が、八大童子に続いて美豆良髪を結った2天童に救われる霊験譚は殊に知られ、彼らは不動明王の使者・矜羯羅と制吒迦であることを明かしている。さらに、高僧に使役される護法童子の例にも目を向けておくべきだろう。護法童子に関しては、『法華経』の「天童」信仰を基盤として寺院にいた現実の童子、不動明王の2童子、金剛童子などのイメージが重なり、複合的に成立したとされている(注7)。例えば書写山の法華持経者・性空上人の使役した若丸・乙丸の2童子については、上人没後まもなく成立したとされる『一乗妙行悉地菩薩性空上人伝』や『法華験記』性空伝に「天童」と解釈する記述がみられるが、平安末期の2-6『今昔物語集』では説話風に、毘沙門天の眷属であることが明かされる。また、2-7『拾遺往生伝』相応伝では金剛童子を名乗る3童子が登場する。以上のように、中世の説話や往生伝から認められる、天童の本地を明かそうとする傾向には注目しておきたい。3.ヨリマシとしての童子、冥府との関連また、天童が神仏の使者等の本地を持つことについては、日本古来の神道行事や陰陽道、仏教儀礼で活躍する聖性を宿した童子との関連も無視できない。例えば、三世の善悪や吉凶を知る予言の法であり、とりわけ日本では病気治療加持の法として認識されていたという密教の阿尾奢法(注8)では、童子はヨリマシ、憑童として活躍する。阿尾奢法が日本で行われた例としては『天台南山無動寺建立和尚伝』の相応伝が知られ、貞観3年(861)に内裏で修された際には、2童子に松尾明神が憑依している(注9)。このように、密教儀礼における童子が霊的存在の媒介者・使者たる役割を果たしてきたことは、持幡童子になんらかの本地を想定しうる根拠となるだろう。ところで、小田悦代氏は護法童子の研究において、『法華経』だけでなく密教経典の記述も護法童子のイメージ形成の一翼を担ったとし、阿尾奢法を明確に記載する『魔醯首羅天説阿尾奢法』等以外にも様々な密教経典を披閲して両者の接点を探っている(注10)。小田氏の引用する密教経典のうち、興然『五十巻鈔』第9「準堤」や覚禅『覚禅鈔』では、善無畏の軌からの引用として准胝観音法で「青衣童子」を表す法が抄出されている。行者の前に現れた2童子のうち、左辺の童子は生ける人間に生― 307 ―― 307 ―
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