鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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14)。そして、唐末五代に成立し、北宋に広く中国で流布した『閻羅王授記四衆預修逆修生七斎功徳往生浄土経生』(以下、『預修十王生七経』)では、善悪童子が衆生の生七斎の善行を天曹や地府などの役所に奏上すると説く。俱生神は本来、冥府の閻魔に奏上する神であり、一方、持斎日の使者である善悪童子の奏上先は忉利天の帝釈天であったが、この『預修十王生七経』に至って同体化、あるいは善悪童子が俱生神の職掌を兼任するようになったと言える。仏道混淆の経典として知られる同経では終盤、十斎を具足すれば十悪罪を免れると説くが、その形成には仏教の十斎と道教の十直斎の儀礼が影響している(注15)。十斎信仰の影響により、俱生神と善悪童子の重複する役割は整理され、両者が習合したものと推測できる。以上のように、元来、善悪童子は持斎日における天帝の使者であったが、早くに俱生神と習合した結果、冥府での活躍をみせるようになった。結果、冥府において閻魔や釈迦の傍らに供侍する善悪童子の姿が、十王経図巻や十王図、六道絵や縁起絵巻などに確認できるようになる(注16)。また、両者の属性をめぐる記述は、天台寺門派の慶範による承安3年(1173)の奥写を有する『傳屍病口傳』や、南宋の王日休『龍舒浄土文』巻9にも確認でき、いずれも俱生神と善悪童子を同一視する観念が存在したことがうかがえる。また、日本撰述ともされる『地蔵菩薩発心因縁十王経』(『地蔵十王経』)巻5閻魔王宮においては、俱生神の解釈がさらに変化もしくは混乱しているものの、両者を「双童」と換言して閻魔王の使者と明記するところから、この観念が定着していることがわかる。なお、同経でも『預修十王生七経』同様、十斎日とその諸仏が紹介される。その後も善悪童子は、少なくとも晩唐期には、修行の護助と罪障消滅を願う懺法の場に勧請される神のうち「罪福童子」として、滅罪の有無を検分する役目を担っていたことが指摘されている(注17)。以降も中国では、罪障懺悔と施餓鬼を目的に行われる水陸会において奉請される神仏の対象となり、こうした懺法の系譜上にも命脈を保ち続けることになる(注18)。ところで、『法華経』所説の天童にもまた、『四天王経』の四天王・善悪童子や、俱生神と近似する役割が確認できる。四天王と善悪童子は、行者を守護しながらも監察・検分の任を持つが、智顗『摩訶止観』や日蓮『種種御振舞御書』の引用で知られるように、俱生神もその両方の役割を担う。この監察・守護という役割は、実は天童にもある。中国6世紀半ば以降の疑経とされる敦煌写本『普賢菩薩説証明経』では、誦経による除災や願成就を説くが、普賢菩薩が天童に持経者を守護させること、天童に行― 309 ―― 309 ―

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