鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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阿部宥精「不空羂索陀羅尼自在王呪経 解題」(『国訳一切経 印度撰述部 密教部5』大東出 小田氏、注⑻、2011年。 本文では触れられなかったが、善悪童子は、道教においての身体神(人体内部の各臓器や部位を司る)を存思(瞑想)して地上に降臨させる方法として描き掲げる童子神に遡求しうることが指摘されている(奥氏、注⒄)。このような童子の画像も、やはり識神、ヨリマシ的な存在といえる。ちなみに、この身体神(五臓神)の観想は、即身成仏思想を説く覚鑁『五輪九字明秘密釈』にも組み込まれており、禅林寺本の持幡童子の属性を示唆するようにも思われる。付記本研究にあたっては、総本山永観堂禅林寺執事長・奥垣内圭哲氏、大阪大学大学院文学研究科教授・藤岡穣氏より多大なるご協力を賜りました。深く感謝の意を表します。の成立と起源」『夢とモノノケの精神史』、京都大学学術出版会、2013年)。⑽小田氏、注⑻、2011年。⑾中野玄三「明恵上人と鏡弥勒像」『学叢』4、京都国立博物館、1982年初掲、その他に再録。⑿長尾佳代子「漢訳仏典における「俱生神」の解釈」『パーリ学仏教文化学』13、パーリ学仏教文化学会、1999年。同氏「俱生神の展開」『仏教文化』10、九州龍谷短期大学仏教文化研究所、2000年。⒀『大正蔵』36-124b。⒁「肩童子」について長尾氏(注⑿、1999年)は、ガンダーラの浮き彫りやトルファンの壁画などにおける、諸仏の肩から俱生神である執金剛が姿を見せる図案の解釈とする説(小林太市郎「執金剛神と不動尊」『仏教芸術』13、毎日新聞出版、1951年、77頁)を紹介されている。一方、長尾氏は、執金剛の原型である仏を守護するインドの樹神たちが遠い祖先である可能性に触れ、中国撰述の注釈文献が「両肩にいる神」と「同生」「同名」を結び付けていることに着目する。ただし「童子」の由来については言及されていない。⒂小南一郎「「十王経」をめぐる信仰と儀礼─生七斎から七七斎へ─」『唐代の宗教』京都大学人文科学研究所研究報告、朋友書店、2000年。⒃こうした造形の作例については、拙稿「冥府からの使者─持幡童子の源流をめぐって─」『仏教美術における絵画と彫刻』(平成18年度─平成20年度科学研究費補助金【基盤研究(C)】研究成果報告書、研究代表者 藤岡穣、2009年)において取り上げた。⒄奥健夫「伽藍神の将来と受容」『仏教美術論集第4巻 図像解釈学─権力と他者─』竹林舎、2013年、363頁。⒅水陸会の儀軌『法界聖凡水陸勝會修齋儀軌』巻3(『卍続蔵経』第150冊)に、閻魔十王らとともに奉請される「善惡二簿童子」の名がみえる。⒆なお、小田氏(注⑻、2011年、122頁)は、『拾遺往生伝』「長慶上人」および『今昔物語集』にみえる、総角の童子や「髪握カミタル童」(制吒迦童子)、「髪結ヒタル小童部二三十人許」らが杖や鞭で天狗を追い打つ説話について、阿尾奢法として著名な『守護国界主陀羅尼経』と関連付けているが、さらにこの『普賢菩薩説証明経』との関連も指摘できるのではないか。⒇小山聡子「護法童子信仰の成立と不動信仰」『論集 文学と音楽史─詩歌管弦の世界─』、磯水絵編、和泉書院、2013年。版社)。― 312 ―― 312 ―

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