来歴については不明な点ばかりである。いずれのアルバムも編纂されたのはティムール朝以降と推定されているものの、貼られている作例にはイル・ハーン朝(1258-1353年)やジャラーイル朝(1336-1432年)に活躍した著名な書家や画家の名前も見られる(注5)。H. 2152とH. 2160は内容が似ており、カラコユンル朝、アクコユンル朝時代に活躍した画家の名前が目立ち、さらにスィヤー・カラム(「黒いペン」の意味)と呼ばれる謎の絵が多いのも特徴である(注6)。H. 2153はティムール朝ヘラートで編纂されたと考えられており、バーイスングル(Bāysonghur 1397-1433年)のアルバムとも称される。H. 2154はサファヴィー朝時代にドゥースト・ムハンマド(DūstMoammad)がバフラーム・ミールザー(Bahrām Mīrzā 1517-1549年)のために編纂したもので、序文に含まれるペルシアの書家・画家列伝が有名である(注7)。ベルリン州立図書館所蔵の計5冊の『ディーツ・アルバム』は、主にH. 2152とH. 2153から外されたと考えられていることから、『サライ・アルバム』の作例と共に取り上げられることが多い。『ディーツ・アルバム』は、1786-1790年にイスタンブールへ赴任した Heinrich Friedrich von Diez の名前に由来している。彼はイスタンブール滞在中に、もとは『サライ・アルバム』に貼られていたはずのフォリオを入手し、古書店で買い求めたものと合わせて装丁し、1817年にプロイセン王立図書館(現ベルリン州立図書館)に寄贈した(注8)。両アルバムには、イル・ハーン朝以来の著名な古書画が貼られていることから、ティムール朝をはじめとするペルシア絵画における中国美術(特に絵画)からの影響を論じる際には、必ず両アルバム中のいずれかの作品が言及される。さらに、ティムール朝ヘラートに仕えた画家ギヤースディーンが遣明使節の一員としてヘラートと北京を往復した際に見聞きした記録も相まって、ティムール朝絵画と中国美術の関連性は度々指摘されてきた。主な先行研究としては、まず Grube and Sims(1981)が挙げられる(注9)。これは、1981年刊行の雑誌 Islamic Art の第1巻に相当し、約500点ものモノクロ図版を掲載し、スィヤー・カラムについての論文も幾つか併載した、『サライ・アルバム』と中国との関わりを吟味する論文集で、当時のコロキウム BetweenChina and Iran: Paintings from Four Istanbul Albums の内容を収録したものである。Sugimura(1986)は4冊『サライ・アルバム』のうち、主に、観音図、四睡図、行進図の3主題に絞って、中国絵画との関連性を述べる(注10)。Lentz and Lowry(1989)は、1989年にアーサー・M・サックラー美術館とロサンジェルス・カウンティ美術館で開催された展覧会 Timur and the Princely Vision: Persian Art and Culture in the FifteenthCentury のカタログで、第3章において “The Kitabkhana and the Dissemination of the― 317 ―― 317 ―
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