イル朝が支配するバグダードをティムールが攻撃した際、ティムール朝サマルカンドに連れて行かれた。アブド・アル・ハイーに関する記述は、ダウラトシャー(Dawlatshah Samarqandi 1508年没)の『詩人伝(Tadhkira al-Shuarā)』、ドゥースト・ムハンマド(Dust Muhammad)のペルシアの書家画家列伝(『バフラーム・ミールザーのアルバム』の序文に含まれる)に残されている。ダウラトシャー『詩人伝』によると、アブド・アル・ハイーは Wasiti Style の絵画を得意とするジャラーイル朝スルタンのウヴァイス(在位1356-1374)に師事していた(注13)。この Wasiti Style がいかなる絵画様式かは伝わっていない。ドゥースト・ムハンマドは、ダウラトシャーの記述とは少し異なり、ジャラーイル朝スルタンのアフマド(在位1382-1410)の庇護を受けつつ、彼の絵の指導をしたと記す(注14)。彼の死後は全ての画家が彼の作品を真似したと記す(注15)。ベルリン本の注記「巨匠アブド・アル・ハイーの作品を、僕であるマフムード・シャー・アル・ハイーヤームが写した」は、ドゥースト・ムハンマドの記す、彼の死後は全ての画家が彼の作品を模倣したという一例であると言えよう。彼への帰属作品は、「戦闘図」以外には、水中で泳ぐ鴨を描いた作例が『ディーツ・アルバム』Diez A, Fol. 70, p. 26, no. 1 〔図4〕に残されている。Fol. 71, p. 65と同様に、ターリーク体で「アブド・アル・ハイーの作品、マフムード・シャー・アル・ハイーヤーム(“Qalam-iKhwāja ʻAbd al-ayy nāqqsh, Muammad b. Mamūdshāh al-Khayyām.”)」と注記があり、顔周りと背の部分を除いてほとんど彩色が施されていない単彩画である。『サライ・アルバム』H. 2153, fol. 46b〔図5〕に残された同様の絵(注記はなし)では、彩色が施されている。他に彼に帰属される作品は、『サライ・アルバム』H. 2154, fol. 20b〔図6〕に貼られた挿絵である。アブド・アル・ハイーへの帰属作例は上記の通りであるが、彼自身のサインが書かれた真筆はなく、実際にどのような絵を、どのような様式で描いたのかは分からない。一見して中国風に見える「戦闘図」〔図2、3〕や「水禽図(鴨)」〔図4、5〕のような作例から、水墨画(monochrome ink painting)に長けていたと考える見方も存在する(注16)。しかし、アブド・アル・ハイーの帰属例は、現在の研究では中国様式と関連づけられる段階に留まり、彼自身が参考にしたと考えられる絵画はこれまで検討されてこなかった。そこで本稿では、続いてアブド・アル・ハイー帰属の「戦闘図」〔図3〕の、さらにオリジナルと考えられる中国版画を取り上げたい(注17)。― 319 ―― 319 ―
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