現れ、さらに本地垂迹説により仏像として崇拝されることもあった。鳥羽氏が強調するように、近世になると天照大神は童子の姿を取って顕れ、雨宝童子として多くの図像が描かれた。その姿こそが白衣に髻のない垂髪という、まさに我々が思い描く女神像である。これが幕末まで続き、最終的には江戸末期の浮世絵版画において天照大神が天岩戸に隠れる場面が好んで描かれるに至って女神像の図容は定着するのである。例えば二代歌川豊国《岩戸神楽乃起顕》天保15年(1844)、三代歌川豊国《岩戸神楽ノ起顕》安政3年(1856)が代表的作例で、いずれも開いた岩戸から現れた天照大神が光を放つ様が描かれているが、白衣に垂髪の女性像である。明治前半期の錦絵では春齋年昌も《岩戸神楽之起顕》明治20年(1887)を描いている。これらを踏まえた結果が明治以降の洋画・日本画の歴史画に表れた女神像であるといえ、鳥羽氏が多数の作例を挙げて詳細に論じている同論考をもって、天照大神の像容の変遷が解明され、現代における女神像のイメージの源泉を理解することができる。鳥羽氏の考察で特に注目したい点は、江戸時代中期に雨宝童子の姿から成人した女性像へと天照大神の姿が変容する過程についてである。先述の論考によれば享保年間に京で神道の民間布教に務めた増穂残口は度々「やまとひめ」に言及している。その呼び名は「大倭姫」や「日本姫」と表記が揺れるのだが、重要なのは残口がやまとひめを天照大神の化身のように叙述していることである。『神国加魔祓』(享保3年初版)において「日本姫を勧請して、日の神の垂迹と形容にも」とあるほかに、『神国増穂草』(享保14年代)では「仮に日本姫の御像を御尸代と立て」として天照大神の垂迹としての倭姫命の像を作ったことを記しているという。ここで倭姫命について説明すると、倭姫命はいわゆる「御杖代(みつえしろ)」として天照大神を伊勢神宮に導いた功績で信奉されている。第11代垂仁天皇の第4皇女として最初の斎王を務め、斎宮の祖ともなっている。斎宮と斎王については榎村寛之氏の一連の論考に詳しい(注6)。鳥羽氏の論考を踏まえるならば、我々が天照大神であると思っている女神像は実はこの御杖代としての倭姫命の姿であると言えるほか、日英同盟時に創作された「やまとひめ」は、「やまとの国」に因んで名前をつけたのではなく、天照大神の垂迹としての倭姫命の名を受けたもので、確かな根拠を持った女神像であると仮定できる。このような変遷をたどり、明治維新後、皇国史観を裏付けるために記紀伝承が整理され、神々は人のかたちをして多数描かれることになった。いわゆる明治期の「歴史画」流行である。「描かれた歴史」展(注7)をはじめとして、1990年代後半から2000年代にかけて天皇・皇后の表象に関する研究が進展した。若桑みどり氏による皇― 326 ―― 326 ―
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