后の肖像についての包括的な論考(注8)、メラニー・トレーデ氏による神功皇后札の考察(注9)、千葉慶氏による天照大神と政治シンボルとしての天皇像の検討(注10)、原武史氏の皇后論(注11)、そして最新の研究成果として塩谷純氏、増野恵子氏、恵美千鶴子氏による『天皇の美術史』(注12)である。天皇像に限らず古代神話の近代における表象を論じた研究としては及川智早氏の一連の論考がある(注13)。また児島薫氏による最新の論考(注14)においては、ちょうど日英同盟締結の、上述した「やまとひめ」が創出された同じ年に描かれた洋画家藤島武二《天平の面影》(1902年)に見られる古代イメージが、日本の古代というよりも東洋、大陸的な風俗であったことが示されている。ここでまた1902年の「やまとひめ」像に戻るならば、北澤楽天(注15)は福澤諭吉の創刊した『時事新報』で風刺画を描いた。楽天は福澤の脱亜論から西欧にならった国家表象を着想したことが予想されるのに加え、彼はイギリス流のカリカチュアを学んでいた。第4節で触れるが、上述したような国内における女神の像容の変化に楽天が西欧の女神像のプロトタイプを重ね合わせ、完成したものが明治後期の「やまとひめ」像であったと言えよう。また「やまとひめ」が大衆に認知されていたことは、例えば志賀直哉の小説『大津順吉』(1912年)にあるように活人画という余興に登場していたことなどから窺える。「私は不意に身を起すと、本箱の抽斗から一冊の女の雑誌を出して来た。其口絵に、或る外交官の家で、日露戦争が済むだ祝ひの宴会でした活人画の写真が出ていた。日の出前の海の背景で英国大使の娘の平和の天使がヤシの葉を片手に持つて、片手で大和姫の手を高くささげている。大和姫の一方の手には白い鳩がとまつて居る。神代風の両方へ分かれた髪の端が輪になつて、それが両乳の上あたりに軽く垂れて居る。耳を隠し、豊かな頬に添って垂れた髪が肉附のよい顔を一層可愛らしい形に輪郭を取つて居る・・・」(注16)次節ではこの「やまとひめ」が崇拝の対象として権威化される過程を考察する。3.女神の権威化─倭姫宮の創建をめぐって前節で繰り返し言及した「やまとひめ」は現在、伊勢神宮(三重県)の別宮「倭姫宮」に祀られている〔図3〕。この宮の由来をたどると、明治期に一度設立が要望されたが実現せず、大正に入って地元の宇治山田市長・福地由廉の請願をきっかけとし― 327 ―― 327 ―
元のページ ../index.html#339