鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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て帝国議会で可決され設立へと至ったことが明らかとなる。その経緯は次のとおりである。国立公文書館の内閣請願建議関係文書によれば、大正4年(1915)6月5日付で貴族院議長徳川家達から内閣総理大臣大隈重信宛に提出された意見書は「倭姫命奉祀の件」と題し、三重宇治山田市長・福地由廉呈出、と記されている(注17)。ここでは「皇祖天照大神の御杖代として大神鎮座の基を定め給へる」と倭姫命が天照大神を伊勢神宮に導いた功労者であるという伝承を明確に設立理由としている。この請願は、帝国議会会議録を調べると大正4年の第36回帝国議会の請願委員会第二分科(外務省、内務省、及農商務省)で審議されたが(注18)「要検討」というところで終わっており、おそらく第一次大戦により棚上げとなったとみられる。そして3年後の大正7年(1918)の第40回帝国議会で取り上げられ、3月14日の衆議院本会議で審議事項となるとともに「神祇に関する特別官衙設置建議案委員会」において討議された。そしてこれらの議論を経て3月20日にようやく衆議院議長大岡育造により内閣総理大臣寺内正毅に対して「倭姫命奉祀に関する建議」(注19)が提出された。これを経て大正9年(1920)12月14日付で内務大臣床次竹二郎から内閣総理大臣原敬へ「倭姫命皇大神宮別宮として奉祀せらる」との宣言(注20)がなされた。その後内務省の先導により大正10年(1921)1月4日に政府から認可され、大正12年(1923)1月5日に皇大神宮別宮として倭姫宮のご鎮座祭が行われた。倭姫宮の建造された場所は、伊勢神宮の外宮と内宮の間にある倉田山と呼ばれる小高い丘の中腹である。宮の前には片山東熊設計の神宮徴古館〔図4〕、宮の隣には神宮農業館が今も開館している。それぞれの設立年は農業館が明治24年(1891)、徴古館が明治42年(1909)である。また倉田山には皇學館大学があり、この一帯は文教地区として機能している。明治以降の天皇の行幸啓のために整備された御幸道路の途上にある倉田山は伊勢神宮の外宮と内宮の中間地帯であり、徒歩で移動するならばおよそ30分を要する。その空白地帯に倭姫宮が位置していることは伊勢市全体の観光地図を描く上でも役割を担っていると言えるであろうし、外宮・内宮どちらにも属さないマージナルな存在としての倭姫宮は、奉賛会が今も姫を顕彰しているように、姿こそ見えないものの「姫」という理想像を祀っているのである。それはきわめて近代的な古代イメージの利用であると説明できるだろう。4.二女神像と「シスターフッド」─同盟国の自画像近代国家として初めて外国との同盟を結んだ日本は国家表象を必要とした。明治35年(1902)の日英同盟時に「ブリタニアとやまとひめ」が創作されたのは必然であっ― 328 ―― 328 ―

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