㉛ 中国美術史における「文人画」概念の由来と展開研 究 者:東京藝術大学 美術研究科 博士後期課程 李 趙 雪はじめに拙稿「近代日本における「文人画」概念の生成」(注1)で論じたように、現在中国絵画史の基幹的概念となっているジャンル用語としての「文人画」は、中国古来の概念ではなく、日本での近世以来のそれが近代日本に再編された新しい概念である。それが翻訳によって1920年代初頭に中華民国に紹介されたことを指摘した。本報告では、昨年発表した「一九二〇年代の中華民国における「文人画」概念の受容と展開─批判対象から「国画」の理想へ」(注2)を踏まえながら、助成期間で得た新知見を加え、中国にとって外来の概念とも言える「文人画」概念が、どのような背景で、だれによって、どのような目的で中華民国に移植されたのか。そしてその解釈自体が、1920年代にどのように変化し、中国絵画史の編纂に導入されていったのかを明らかにしたい。1、「文人画」概念の由来─フェノロサ著・李四傑訳「中国日本美術分期史」の発表⑴新文化運動の中の美術革命1911年の辛亥革命で、古代から続いた君主制が廃止され、翌年、共和制の中華民国が成立する。しかし1913年3月大総統に就任した袁世凱(1859-1916)が、1915年皇帝を名乗って帝制を復活させ、1915年12月12日から1916年3月23日までは、北京の中華帝国(あるいは洪憲帝制)が並存した。1916年6月の袁世凱の死による独裁政権終焉後も、1917年7月1日には革命後も清朝に忠節を尽す張勲(1854-1923)が、混迷する時局のなかで溥儀を再び即位させ、帝政の復活を宣言する。しかしわずか12日後、張勲は安徽派軍閥の段祺瑞(1865-1936)が組織した「討逆軍」によって駆逐され、直隷派軍閥の馮国璋(1859-1919)が代理総統、段祺瑞が国務総理兼陸軍総長となって北京政府の実権を掌握した。以後、中華民国の北洋政府(北京政府)の時代となるが、当時の知識人にとって、帝政の復活を防ぎ、旧来の思想・道徳・倫理を徹底して改革し、思想を“革命”することが急務の課題となった。これが、今日「新文化運動」と呼ばれる運動の始まりである。「科学」「民主」をスローガンに、「文学革命」から始まった新文化運動は、アメリカ留学中の胡適(1891-1962)が発表した「文学改良芻議」(注3)、陳獨秀(1879-1942)の「文学革命論」(注4)が、「反伝統、反儒家、反文言(伝統、儒学、文語の― 333 ―― 333 ―
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