批判)」を訴えた。1918年1月以降、新文化運動は美術の領域にも波及するが、革命すべき具体的な論点が統一されていなかったため、批判は、西洋画教育を中心とした上海図画美術学院(後の上海美専)(注5)、清代の正統派の「四王」や「学士派」(注6)、中国絵画の「倣古」の伝統(注7)、「文人之末技」(注8)など、様々に向けられた。⑵フェノロサ著書の部分翻訳批判対象が統一されていなかった1920年前後の状況下で注目されるのが、『北京大学日刊』(以下『北大日刊』)に1920年7月31日から9月30日まで、フェノロサの著書EPOCHS of CHINESE and JAPANESE ART(英語初版1912年、日本での『東亜美術史綱』の出版は1922年)が部分翻訳され、「中国日本美術分期史」というタイトルで連載されたことである〔図1〕(注9)。拙稿(注10)ですでに論じたように、フェノロサの「文人画」論は、中国絵画での伝統重視を、「儒教(Confucian party)」の「保守性(full unquestioned adaptation)」による弊害とし、「文人画(bunjinga)」を「儒生画(Confucian paintings)」として批判した。フェノロサのこの文人画批判が、伝統や儒学を批判した新文化運動と同調したのだった。以後、「文人画」という語は、蔡元培、陳独秀、徐悲鴻らがそれぞれの立場でバラバラに批判した「王画」「近世の画」(注11)「名士派」(注12)「文人の末技」(注13)といった諸語を、統一する批判対象用語となっていった。それに対して「国画」擁護の立場から、国画家・陳師曾が翌1921年1月1日当時の中華民国に相応しい概念として「文人画」の肯定的な再解釈を試みた。2、1920年代における「文人画」概念の展開─陳師曾(1876-1923)の「文人画」論⑴フェノロサ著書に対する反論これまで筆者も、陳師曾の文人画論は大村西崖の影響で形成されたと考えてきたが、陳師曾の「文人画的価値」(1921年1月1日)は、大村西崖の『文人画之復興』(1921年1月7日)より一週間ほど早く発表されているため、近年中国で両者の影響関係について再検討が行われている(注14)。ただ定説がまだ見られないため、ここでは「文人画」という概念が中国旧来の概念ではないこと。前述の「中国日本美術分期史」が、「文人画」という語の初出であること。そして大村西崖とまだ面識がなかった陳師曾の「文人画的価値」が、意図的に「中国日本美術分期史」と同じ語を用いながら、意味としては逆に「文人画」を肯定的に解釈したものだったことを確認しておく(注15)。― 334 ―― 334 ―
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