鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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次に、陳師曾が再解釈した「文人画」概念の内容と、彼がこの語を使用した理由を検討してみる。⑵陳師曾の「文人画」論と1920年代の思想動向陳師曾は「文人画的価値」で、文人画家を「第一人品、第二学問、第三才情、第四思想」という四つの基準で規定し、とくに人格という点に重きを置いて、「文人画」を肯定的に再解釈した(注16)。この「文人画」論が多くの支持を得た理由には、二点があげられる。第一に、それが「美育を以て宗教に替える(以美育代宗教)」という、蔡元培が提起した当時の中華民国の文化政策に沿っていたこと、第二に、1923年から始まる「科学と人生観」論争にも関係したことである。「以美育代宗教」中華民国が臨時政府として設立されて間もない1912年4月、初代教育総長・蔡元培は、「教育に対する方針意見(對於教育方針之意見)」の中で、王政下での宗教に代わる新たな教育理念として、人間の感情を養い、純粋かつ普遍性をもつ「美育」(注17)を提起した。清末民国初期の知識人のリーダーだった蔡元培は、アヘン戦争(1839年9月4日-1842年8月29日)以降の太平天国の乱(1851-1864)や義和団事件(1900)など、宗教を大義名分とする農民暴動に失望し、宗教より美術に道徳・思想教育の役割を求めた。陳師曾の「文人画的価値」は、まさにこの美術による道徳・思想教育の延長線上に位置するものだったと言える。さらに陳師曾の「文人画」論は、後に中国近代思想史上で有名になる「科学と人生観」論争にも関係していた。「科学と人生観」論争1923年2月、北京大学教授張君勱(1887-1969)は、清華大学で「人生観」という講演を行い、学生たちに科学と物質文明への不信と、「内心生活と修養」に回帰すべきことを訴えた。張君勱の講演は、新文化運動で「科学」を支持する丁文江(1887-1936)らの反発を招いたが、胡適、梁啓超(1873-1929)らをはじめとする当時の知識人の大部分が、翌1924年にかけて行われたこの「科学と人生観」の論争(科学與玄学論戦、略称は「科玄論戦」)に参加した(注18)。この論争は、陳師曾が1922年5月に発表した著書『中国文人画之研究』より九ヵ月遅れているが、論争の内容や、その参加者が陳師曾の周辺関係者だったことからすると、陳師曾の『中国文人画之研究』が、「科学と人生観」論争の先触れとなった様子が窺われる。陳師曾の「文人画」論は、新文化運動の「美育」の理念(蔡元培)と、「科学」に対置された「人生観」に一致する立場をとっていた。これに関して陳師曾が、当初口語体で発表した「文人画之価値」を、新文化運動が批判した文語体で意図的に書き直― 335 ―― 335 ―

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