したことも、注目される(注19)。文語体の「文人画之価値」には、以下の文章が新たに書き加えられている。或又謂文人畫過於深微奧妙、使世人不易領會、何不稍卑其格、期於普及耶。此正如慾盡改中國之文辭、以俯就白話、強已能言語之童而學呱呱嬰兒之泣、其可乎欲求文人畫之普及、先須於思想品格之陶冶世人之觀念、引之使高以求接近文人之趣味。(句読点、傍線筆者)ここで陳師曾は、格調高い文人画は世間に普及しにくいという意見に対して、文人画の基準を低くするより、人々の思想、人格の方を養うべきだとし、「文人画」によって国民の道徳、教養を高めようと意図した様子が窺われる。つまり当初、新文化運動で批判された「儒教(Confucian party)」絵画の「文人画(bunjinga)」が、陳師曾の解釈によって、蔡元培の「美育を以て宗教に替える」理念にかない、かつ「科学と人生観」論争で、人生観の重要性を訴えた知識人の支持も得ることになったのだった。3、 1920年代の中国美術史における「文人画」概念の系譜─中村不折・小鹿青雲共著『支那絵画史』(玄黄社、1913年)の翻訳を中心に中村不折・小鹿青雲著の『支那絵画史』〔図2〕は、何度も版を重ね、發行部数が極めて多かったにもかかわらず、日本国内の中国美術史研究では重要視されていない(注20)。一方中国では、この『支那絵画史』は、中国絵画史の草創期に出版された陳師曾『中国絵画史』(翰墨縁美術院、1925)、潘天寿(1898-1971)『中国絵画史』(商務印書館、1926)の底本となっている〔表1〕。注目されるのは、陳師曾と潘天寿の翻訳の間には、中村不折・小鹿青雲『支那絵画史』で詳述されていた明清期の正統派の四王(すなわち王時敏、王鑒、王翬、王原祁)に関して、変化が見られることである。まず1922年、陳師曾は日本の東洋協会の雑誌『東洋』に掲載した文章「南画に就いて」(注21)で、「どうしても正統と號稱するもの、何か四王の外尚ほ門徑があるのではないかと疑はれる」とし、「文人画」による清代絵画の新たな“正統”を考え始めている。ただ陳師曾の『中国絵画史』では、まだ中村不折・小鹿青雲『支那絵画史』の四王評価を、ある程度忠実に翻訳している。一方、新興階級の人々が集まった商業都市・上海で、中村不折らの同書を底本にした潘天寿の『中国絵画史』では、新たな清代文人画の系譜が記述されている。たとえば、明清代の政治の中枢・北京の内府コレクションは、元末四大家から清代― 336 ―― 336 ―
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