鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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の四王にいたる南宗画の正統を蒐集していたのに対して、書画市場が発達した上海では、一般市民が入手できる民間画家の作品、特に海上画派や金石派の作品が流行しており、潘天寿の『中国絵画史』もその状況を反映していた。1920年代の上海では、印象派やフォーヴィスム、表現主義、キュビズムなどの現代美術の輸入とともに、国画の領域でも石濤(1642-1707)、八大山人(1626-1705)といった個性派画家たちのブームがおこった(注22)。1923年8月、上海美術専門学校の校長・劉海粟(1896-1994)は、「石濤と後期印象派」という文章で、石濤の画を「人格之表現」としており、陳師曾の「文人画的価値」の影響を窺わせる一方、石濤と表現主義の類似性を述べている(注23)。陳師曾の「文人画」概念の支持者とも言える劉海粟は、同文章で旧来の正統派に加えて陳洪綬(1598-1652)、龔賢(1618-1689)、石濤、 残(1612-1673)といった個性派画家をとり上げており、文人画の系譜を再考している様子が窺われる。この劉海粟が率いた上海美術専門学校で、中国画と中国絵画史を担当していたのが潘天壽だが、彼は早くから既存の南北宗の分類に疑問を抱き、中村不折・小鹿青雲『支那絵画史』を底本に、『中国絵画史』(商務印書館、1926年)を書き上げた。ここで彼は、底本の『支那絵画史』にはない個性的な四僧(弘仁、 残、八大山人、石濤)を、文人階級に属する士大夫として書き加えたのだった。明清代の個性派画家が、劉海粟や潘天寿によって、「南宗」正統の四王以外の新たな「文人画」として位置づけられたのである。したがって、中華民国における「文人画」概念の再解釈が、北京の陳師曾によって行われ、それによる系譜の再編が、上海の劉海粟らによって行なわれたと言っていいだろう。さらに今日、中国人による最初の中国美術史として評価される(注24)鄭昶(1894-1952)の『中国画学全史』(中華書局、1929)もまた、陳師曾と潘天寿の『中国絵画史』を継承したものである〔表2〕。おわりに本報告では、1920年代の中国美術史における「文人画」概念の由来と展開について考察した。「文人画」という語は、1916年代から始まる新文化運動で、まず批判対象の旧王朝期の保守的絵画を示す語として、近代中国にはじめて登場した。しかしその後「文人画」は、国民道徳・教養の形成という民国期の時代要請の中で、画家の人格・教養の重視という新たな意義を獲得し、多くの支持を得た。そして1920年代後半に、新たな「文人画」概念によって、文人画の系譜が再編され始めていく。伝統的意識の― 337 ―― 337 ―

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