注⑴拙稿「近代日本における「文人画」概念の生成」『近代画説』25、明治美術学会、2016年12月。⑵拙稿「一九二〇年代の中華民国における「文人画」概念の受容と展開─批判対象から「国画」強い北京の旧官僚、文人らの意識を代表する陳師曾の「文人画」概念が、国民の道徳・教養の新たな規範を示したとするなら、西洋美術を積極的に吸収する革新的な美術家だった劉海粟による「文人画」の系譜の再編が、当代の画家にも実践可能な、国民が親しみ易い表現を具体的に示したとも言える。「文人画」という日本からの輸入概念は、二つの大都市だった北京と上海で、伝統と革新の二つの勢力からそれぞれ支持を得たことで、中国絵画史の基幹概念となっていく足場が形成されたのだった。ただし1920年代に書かれた『中国絵画史』の「文人画」系譜は、ほぼ中村不折らの『支那絵画史』のそれを借用したものだった点、中国人自らが語る「文人画」概念を軸とする中国絵画史は、1929年の鄭昶の著作を待たなければならなかったといえる。の理想へ」『近代画説』27、明治美術学会、2018年12月。⑶胡適「文学改良芻議」『新青年』2巻5期、群益書社、1917年1月。⑷陳獨秀「文学革命論」『新青年』2巻6期、群益書社、1917年2月。⑸呂澂「美術革命」『新青年』6巻1期、群益書社、1918年1月。⑹陳獨秀「美術革命」『新青年』6巻1期、群益書社、1918年1月。⑺10月22日、蔡元培は自ら組織した北京大学画法研究会(1918-1923)で、中国の文学、思想、道徳の三分野では、伝統規範を守る意識が強く、美術の分野も例外ではないと批判。ここから民国における美術革命の標的は、文学革命と同様に伝統の重視、あるいは中国絵画の「倣古」の姿勢に集約された(高平叔編『蔡元培年譜長編』第2巻、人民教育出版社、1999年3月、714頁)。⑻北京大学画法研究会の会員(研究会では教える教員)で、西洋写実主義の支持者だった徐悲鴻(1895-1953)は、1920年5月14日、同研究会で行なった講演「中国画改良之方法」で、中国画を批判し、西洋の写実絵画による国画の改良・革新を呼びかけた(徐悲鴻「中国画改良論」『絵学雑誌』第1期、北京大学絵学雑誌社編、北京大学画法研究所発行、1920年6月)。⑼「第十章 中国理想の美術時代 北宋」1920年7月31日~8月14日、「第十一章 中国理想の美術時代 南宋」1920年8月14日~9月20日、「第十五章 中国近世の美術 清朝」1920年9月20日~9月30日。翻訳者・李四傑の詳細な経歴は不詳だが、『北京大学日刊』からは、彼が北京大学で経済学を専攻し、同大学夜間課程の英文教師を務めたことがわかる。⑽前掲注⑵。⑾康有為(1858-1927)「序言」『万木草蔵堂目』長興書局、1918年3月。⑿蔡元培「北京大学画法研究会第二次始業式之演説」『北京大学日刊』北京大学日刊社、1918年10月25日号。⒀徐悲鴻「中国画改良論」『絵学雑誌』第1期、北京大学絵学雑誌社編、北京大学画法研究所発行、1920年6月。⒁劉暁路「大村西崖和陳師曾─近代文人画復興的苦闘者」『芸苑』南京芸術学院学報、1996年4期、― 338 ―― 338 ―
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