⒇ 中村不折、小鹿青雲著の『支那絵画史』については、陸偉栄著『中国近代美術史論』(明石書店、2010年11月)、于凱「他者的眼光─日本学者所著中国美術史通史概述」(『文芸争鳴』吉林省文学芸術界連合会、2013年10月)参照。⒂ 前掲注⑵。⒃ 陳師曾「文人画的価値」『絵学雑誌』第2期、北京大学絵学雑誌社編集、北京大学画法研究所⒄ 「美育」という語は、蔡元培がドイツ語のÄsthetische Erziehungを翻訳したものである(蔡元培「二十五年来中国之美育」1931年5月)。高平叔編『蔡元培全集 第六卷 1931-1935』中華書局、1988年、54頁。⒅ 胡適『丁文江伝』南海出版社、2002年8月、63~64頁。⒆ 1921年10月、北京を訪れた大村西崖とはじめて会った陳師曾は、口語体の「文人画的価値」(同年1月)を文語体に書き直し、「文人画之価値」というタイトルで、大村西崖『文人画之復興』の翻訳とまとめて、翌年『中国文人画之研究』(中華書局、1922)として出版した。 陳師曾「南画に就いて」『東洋近代美術之研究』東洋協会編輯部、1923年1月、127~135頁。 近年、20世紀初頭の日中美術交流として、石濤ブームに関する研究が多く発表されている。文貞姫氏は、「四僧」の一人の石濤が、20世紀の中国で興隆した伝統主義の中で、四王の代替もしくは新たに臨模すべき様式として注目されたこと。またそれまでの正統だった四王への批判が、中国の民族主義的な反清意識や、反帝国主義の歴史観と、密接に関係していることを指摘した。文貞姫「石濤、近代における「個性」という評価の視線」『美術研究』405号、東京文化財研究所、2012年1月。 「観夫石濤之画、悉本其主情感而行也、其画皆表現而非再現、純為其个性、人格之表現也。其画亦総合而非分析也、純由純念而趨単純化、决不為物象複雑之外観所窒。至其画笔之超然脱然、既无一定系統之伝承、又无一定技巧之匠飾。(傍線筆者)」(劉海粟「石濤と後期印象派」『時事新報·学燈』1923年8月25日、または『国画月刊』第10期、1936年10月7日)。 朱傑勤(1913-1990)は、「惟鄭氏之書、雖偏於画学、然体例完善、材料又富、誠我国美術界中一巨著也」(『秦漢美術史』崇徳学社、1935年8月)として、鄭昶の『中国画学全史』を賞賛している。また余紹宋(1883-1949)も、陳師曾及び潘天壽の『中国絵画史』は、日本人の著作を底本としたのに対して、鄭昶『中国画学全史』は、自らの見解による「実開画学通史之先河」の研究として激賛している(『書画書録解題』国立北平図書館、1932年6月)。いずれも鄭昶の『中国画学全史』を中国美術史学上の最初の著作として評価している。今日の研究でも、阮栄春・胡光華著『中国近現代美術史』(天津人民美術出版社、2005年6月、266頁)などが、鄭昶『中国画学全史』を積極的に評価する。同「日本的中国美術研究和大村西崖」『美術観察』中国芸術研究院、2001年7期、陳振濂著『近代中日絵画交流史比較研究』安徽美術出版社、2000年10月など。そこでは、吉田千鶴子「大村西崖と中国」(『東京芸術大学美術学部紀要』29、東京藝術大学、1994年3月)の観点を受け継ぎ、陳師曾が西崖の『文人画之復興』の半分を口語文で翻訳し、半分を自身の著述として「文人画的価値」を完成させたもので、西崖の『文人画之復興』と姉妹篇をなすものと指摘する。一方、陳池瑜氏は、大村西崖からの「影響」という説に異議を唱え、「文人画的価値」を陳師曾独自の著述とした(陳池瑜「陳師曾中国画進歩論之意義」『東南大学学報(哲学社会科学版)』東南大学、2006年5期)。発行、1921年1月。― 339 ―― 339 ―
元のページ ../index.html#351