鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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によると、木造で3尺~4尺ほどの像高で、鎌倉時代の作風を有するように見受けられた。三十三番札所の那古寺が発行したとみられる『坂東札所御本尊御身影』(注4)〔図2〕によると、坐像である。本堂と奥の院には近世の諸像が安置される(注5)。(2)18番 日光山中禅寺寺はもと二荒山神社中宮祠の地にあったという。延暦3年(784)勝道上人開基と伝える天台宗寺院。本堂・観音堂本尊は千手観音菩薩立像(国重要文化財)で、像高約6mをはかる(注6)〔図3〕。頭上には、上段に六面、下段に五面、頂上仏面を含め計十二面をいただく。天冠台は紐一条、帯状で構成する。条帛、天衣をまとい、裙と腰布をつける。左右各21手で、正大手の合掌手と宝鉢手、蓮華手以下の脇手で42臂をあらわす。構造は、頭体幹部をカツラの一材で彫成し、背面から内刳を施し、別材の背板を当てる。両肩以下別材で、合掌手・宝鉢手・蓮華手は肘先をこれに矧ぎ寄せ、他の脇手は背面後方の三材に左右各6臂を矧ぐようである(注7)。丸い顔、伏し目がちな眼、浅い衣文表現は、平安後期の特徴を示す。ほぼ同時代の四天王を随侍させる。胸部や脚部に、のみ痕をのこす点が注意される。男体山頂から出土したという銅製の千手観音菩薩坐像(重文)〔図4〕は、総高31.2cm、像高23.9cm、紐一条列弁形の天冠台をつけ地髪部に十一面、髻正面に仏面、計十二面をあらわす。条帛、天衣、裙をつける。合掌手、宝鉢手、両膝上に水瓶手、両胸前で第一・三指を捻じる手は、持物を欠失するが蓮華手かと推察される。脇手各15本をあらわす。光背・柄と一鋳の御正体である。大黒天堂に祀られる千手観音菩薩立像は、ヒノキの一材で彫成し、頭部両耳後、体側後方を通る線で別材を矧ぎ内刳する。体幹部像高107.3cm、髪際高90.7cmの像で建長2年(1250)の銘を持つ(注8)。本像の頭上面十面をすべて仏面であらわす図像は「日光山所権現像」にも描かれ、鎌倉時代に24世別当弁覚(1210~1234)が熊野修験を導入したことの証左とされる。両胸前に蓮華手をあらわさない姿が前二者と異なり、三十三観音札所成立の前と後の図像の変容を知る上で興味深い。(3)19番 天開山大谷寺宇都宮市大谷町所在の、弘仁元年(810)弘法大師開基と伝える天台宗寺院で、凝灰岩の大谷石の崖に計10軀が刻まれる。本尊の千手観音菩薩立像は像高3.89m〔図5〕、その右脇に伝釈迦三尊像(中尊像高約3.54m)、さらに伝薬師三尊像(中尊像高約1.15m)、伝阿弥陀三尊像(中尊像高約2.66m)〔図6〕が展開する(注9)。千手観音像は髻を結い、紐一条の天冠台上に、如来立像を線刻する山形の冠飾をつける。条帛、天衣をまとい、腰帯、裙をつける。腕は合掌手、宝鉢手、両肩前の手は― 343 ―― 343 ―

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