にはのみ痕が多くのこる。脇手は矧ぎ寄せるとみられる。背面は頭部から地付部近くまでを内刳りして背板をあてるという(注22)。像の表面には瓔珞や丸文の墨書がみられる。表面に胡粉または白土が確認される。指定では室町時代となっているが、下膨れの丸い顔に伏し目がちな眼、体躯にはのみ痕をのこすなど、岩手・天台寺の如来像などに通じることから、平安時代後期の作と考えられる。堂内にはお前立の14世紀前半頃かとみられる千手観音菩薩立像〔図11〕、その両脇侍に不動・毘沙門天、二十八部衆像(市指定・室町時代)、風神・雷神像(市指定・鎌倉時代)も祀られる。(3)同市小倉にある朝日観音堂本尊聖観音菩薩立像は、20番札所の益子・西明寺勢至菩薩立像に面貌表現や着衣形式など作風・形式が共通し、製作時期は鎌倉時代後半頃とみられ(注23)、八溝山系麓における観音信仰を示す作例である。(4)金瀧山清水寺栃木県栃木市大平町西山田にある下野三十三観音第二十六番札所である。栃木市から5kmほど南西の大平山馬不入山の中腹に位置する。文永二年(1265)の墨書銘をもつ千手観音菩薩像は、像高148.8cm、髪際高124.2cm、高髻で、髻頂に仏面、地髪部に十面を上下二段に、正面に化仏立像をあらわす。天冠台は紐二条列弁。条帛、天衣をかけ、折返し付の裙の上に腰布をつける。四十二臂で胸前で合掌手、合掌手の肘から上方を胸前で蓮華手、肘下方を腹前で宝鉢手をあらわす。榧材の割矧ぎ造り、素地、彫眼の像である〔図12〕(注24)。3 千手観音像の図像について以上、下野を中心に坂東三十三所札所とその周辺に祀られる観音菩薩の様相をみてきた。最後に千手観音像の図像の問題について述べる。18番中禅寺本尊は合掌手の肘から上方に蓮華手をあらわす(注25)。19番大谷寺本尊も持物を亡失するが、中禅寺像と同様、合掌手上方の手は胸前で掌を前に向け第1~3指を捻じており(指先後補か)、蓮華手と想定される。中禅寺の銅製千手観音坐像(持物別鋳、亡失)も同様で、さらに下野三十三観音札所の栃木市清水寺像も、後補ではあるが蓮華手を同形にあらわす。彫刻作品における同形の像は、上記4軀のほかには管見では確認できないことから(注26)、下野地方に流布した図像ということができよう。この蓮華手は、『図像抄』(注27)『別尊雑記』(注28)などの図像や『印仏』絵画にみられる通例の形で、なぜ多くの千手観音の彫像作例が、図像で流布した形を採用し― 348 ―― 348 ―
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