なかったのか究明が待たれるところであろう。胸前に蓮華手をあらわす図像を本尊に採用する中禅寺、大谷寺との共通項は何か。日光山を開いた勝道上人が天平宝字5年(761)に下野薬師寺で出家、鑑真和尚の弟子如意(胡国人安如寶)より受戒したとする資料があることで、大谷寺と唐招提寺との関連が指摘されている(注29)。しかしながらほぼ同時期の唐招提寺の千手観音菩薩立像の手印はこの形をとらず、直接的な影響関係をみることは難しい。奈良時代末の様式をのこす大谷寺像より㴑る図像の典拠が確認できない点も、今後の検討課題としたい。ちなみに『図像抄』は第1~3指を捻じ左手に青、右手に白の蓮華を執り、『別尊雑記』は第1~4指を捻じ蓮華を執る。千手観音の四十手の図像に関しては浜田瑞美氏、野口善敬氏の先行研究があり、基本経典である『千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経』(以下『千手経』)には左右の手の割り振りは規定されないという(注30)。なお上記のほか『千手陀羅尼』『千光経』『補陀落海会軌』などは、18手(左)と19手(右)を各白蓮華手、青蓮華手とする(注31)。『覚禅抄』によると白蓮華は「功徳をみたす」、青蓮華は「浄土に生まれる」の意をしめすという。おわりに以上、下野および下総の一部の坂東三十三観音札所と、その周辺寺院の観音菩薩像について確認を行った。本調査研究により、下野の観音札所の中禅寺と大谷寺の千手観音像は合掌手の肘上方に蓮華手をあらわす形を採用すること、また下野国内の他所の像にもその採用例があり、その図像的典拠は、一般に流布している千手観音像であることを確認した。前述のように下野国内に流布した理由、また、他の千手観音彫像がなぜこの形を採用しなかったのかについては、今後のさらなる検討課題としたい。本調査研究により、札所周辺に位置する観音諸像については、これまで江戸時代とみられていた那須烏山・松倉山観音堂像のうちの一軀が鎌倉時代の像と推定され、室町時代とみられた那須烏山・太平寺本尊が、平安時代後期と推定された。こうした周辺調査の進捗により、三十三観音札所成立以前における観音信仰の諸相も次第にあきらかになりつつある。また、大谷寺脇壇第2龕・4龕の脇侍について、前述のように放光菩薩とみる見解があるが、放光菩薩における合掌手の地蔵の例を確認できず、引き続き検討を行っていきたい。本研究にあたり、那須烏山市一乗院さま、同市太平寺さま、栃木市満願寺さまには― 349 ―― 349 ―
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