迎講儀也。」と、往生の様子が雲居寺の迎講のようであったと記され、雲居寺での迎講が当時名高いものであったことがうかがえる。先に見てきたように、噡西を理想的な僧侶として描く表現を採りながらも、最終場面は噡西の姿を描かず、雲居寺での迎講の儀で締めくくる本絵巻の構成からは、メット本の祖本の制作に、雲居寺周辺の人物の関与が想定されるのではないか。雲居寺は承和4年(837)に天台宗の寺院として建立され、その後衰退していたのを11世紀末から12世紀初頭にかけて、噡西が再興した。『秋夜長物語』では、瞻西が雲居寺を建立したとなっているが、史実上は再興である。また、雲居寺内に金色の八丈阿弥陀仏を建立したという。雲居寺は応仁・文明の乱の兵火により廃寺となるが、噡西没後から廃寺となるまでの間の状況については、史料が少なく明らかでない。四十八巻本「法然上人絵伝」巻十三第六段、「一遍聖絵」巻七第三段には、それぞれの祖師が雲居寺を訪れたという記述があり、謡曲『自然居士』では、臨済宗の無関普門の法を引く説経者自然居士が、雲居寺造営のための勧進を行っている。原田正俊氏は、雲居寺に一遍率いる時衆の徒が訪れ、さらに自然居士が勧進を行っていることから、「遯世僧であり遊行の徒である禅僧と時衆が混在し接触する機会は多かったと見られる」と指摘し、「天狗草紙」の、時衆と自然居士が連続で描かれる場が、雲居寺である可能性を指摘している(注14)。氏の指摘通り「天狗草紙」の場面が雲居寺と認められるならば、鎌倉時代後期においても、雲居寺は信仰の場として多くの群衆が参詣する場であったことを、絵からうかがい知ることができる。この時期の雲居寺の宗派、あるいは住僧の実態については不明であるが、宮地邦崇氏は、噡西が檀那院流の唱導者であり、自然居士のような唱導者が雲居寺で活躍していたことから、雲居寺は唱導の拠点となっており、唱導上の必要によって、噡西の事績が、脚色・創作されて生み出されたのが『秋夜長物語』であったのではないかと推測している(注15)。また、福田晃氏は、梅若死後の桂海が、遺骨を首にかけ斗藪し、侍童が高野山に籠ったという点に着目し、雲居寺は高野山と繋がる念仏系の寺院であり、物語を語る念仏聖が『秋夜長物語』の作者であったのではないかと指摘する(注16)。『秋夜長物語』の作者については、比叡山の僧侶(注17)や、『太平記』の作者圏に近い天台宗系の僧侶(注18)、天台宗浄土門系の学侶(注19)など、様々な説が提示されており、宮地氏、福田氏の指摘についても検討の余地を残す。しかし、作者論は措くにしても、雲居寺が唱導の拠点となっており、『秋夜長物語』がそこで語られていたという推論は傾聴に値する。また、南北朝期成立と推定されている唱道説話集『神道集』の「上野群馬郡桃井郷― 361 ―― 361 ―
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