フロワは、1908年に所長に就任するとまず、美術批評家時代の交友関係を利用しながら、タピスリー近代化の試みに着手した。ジュール・シェレ(1836-1932)やオディロン・ルドン(1840-1916)らの下絵に基づいて製作されたこれら「第一計画」(注5)の作品群は、世紀末以来の装飾芸術運動の潮流を汲みながら、それまでのゴブランが顧みてこなかった近代的な感覚を反映した造形を示している〔図1、2〕。この「第一計画」は、1908年7月8日付け、美術政務次官エティエンヌ・ドゥジャルダン=ボーメッツ(1852-1913)宛ての文書に示されたジェフロワの提案に端を発するが、実は、当該文書には、風刺画家アドルフ・ヴィレット(1857-1926)に対する「春」と題した下絵注文(3,000フラン)も含まれており、確かな理由は不明だが、1909年2月にこの注文内容が「春」から「パリ」へと主題変更されたことが、本論で扱う連作「フランスの諸地域と諸都市」開始の発端となった(注6)。本連作は、最終的な完成形態や特定の設置場所を定めずに開始され、ジェフロワが没した1926年以降、未完のまま残された作品群である。フランス国立古文書館およびモビリエ・ナショナル資料室に保管される下絵注文に関する公文書類の精査により、本連作は、ヴィレットに基づく《パリ万歳》〔図3〕を筆頭に、ジェフロワが選出した12名の画家の下絵に基づいて、フランスの各地域や河川を主題とする13点のタピスリーで構成されることが、現時点で明らかとなった。タピスリー化されず下絵のまま残された2点を含め、各タピスリーは、フランス各地の姿を描き出し、第一次世界大戦を挟んで1930年頃まで製作は継続された〔表〕。筆者はすでに別稿にて、《パリ万歳》の造形的特質と、その図像に象徴される本連作全体のコンセプトについて論じたが、そこでは、パリ市のモットー「たゆたえども沈まず」を掲げ、「パリ」の女性擬人像を頂点に描いた本作の図像構成から、首都パリの革命精神と、19世紀の政体変遷の末にようやく安定の兆しをみた第三共和政永続への願いが読み取れることが明らかとなった(注7)。また、各地域を表した個々のタピスリーが連作として集合することで、本連作が、フランス国家が多様な個性を有する諸地域の集合体で構成されている実態を視覚化するプログラムを持つと結論づけた。特定の設置場所を選ばない室内装飾品としての性格が強い「第一計画」の作品群とは異なり、本連作には政治的メッセージ性が色濃く付与されており、ジェフロワによるゴブラン刷新活動の次なる段階を明らかに示していると言えよう(注8)。では、《パリ万歳》の完成後、本連作は具体的にどのように展開したのだろうか。以下では、いくつかのタピスリーを例に取り上げて、本連作が第三共和政下のフランスの姿をいかに描き出していったのか、考察を進める。― 368 ―― 368 ―
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