よって接続され、1つの構造体をなしているものは他に例がない。そのうえ、一方の書見台は内陣障壁の外側に、もう一方は内陣障壁の内側に位置している点でも特殊なものと言える。先行研究は、説教壇と内陣障壁に施された装飾文様を手がかりとして、装飾文様が彫られた時期と、説教壇と内陣障壁が組み立てられた時期について議論してきた。説教壇の階段と中央身廊の内陣障壁は連結しているため、この両者が同時に設置されたことは明らかである。しかし問題を複雑にしているのは、内陣障壁の石材も説教壇の石材もすでに文様が彫られていたものを再利用している点にある。大方の先行研究はこれらの文様の多くを9世紀頃に彫刻されたものとしているが(注5)、内陣障壁と説教壇の設置時期については意見が分かれている。現在の内陣障壁が後世に再設置されたものであることを初めて指摘したのはフレデリック・ハミルトン・ジャクソンだった(注6)。続いてマリア・リンダ・カッマラータが内陣入り口の銘を手がかりに内陣障壁の設置時期を17世紀と見なしたが、銘の年号が何を指しているのかは不明である(注7)。1997年、アンナ・リータ・カルレットは、改築の痕跡の詳細な分析と、左右の身廊の内陣障壁がそれぞれ第4ピラスターの裏側に描かれたフレスコ画を損傷させていることに着目し、13世紀前半にフレスコ画が描かれた後に説教壇と内陣障壁が設置されたと考えた(注8)。カルレットの意見には説得力があるものの、中央身廊の内陣障壁と左右の身廊の内陣障壁が同時に設置されたことの証拠を欠く点が問題である。説教壇の機能に言及したのはカルレットとラウラ・ナッツィである(注9)。カルレットは、演壇状説教壇の書見台は南西を、単独状説教壇の書見台は東を向いていることから、それぞれ使徒書簡と福音書を読むためのものであったと考えた。キリスト教の聖堂においては、中央祭壇を正面に見て向かって左側(北壁側)を福音書側(cornu evangelii)、向かって右側(南壁側)を使徒書簡側(cornu epistulae)と呼ぶからである。ナッツィは本説教壇と比較しうる例がないとしつつもカルレットの意見に賛同している。しかし、本聖堂でどのような典礼が行われていたのかはわかっておらず、本説教壇が特殊な構造を持ち、そして2つの書見台が福音書側と使徒書簡側に向かって設置された必然性については明らかにされていない。先行研究の問題点を踏まえるならば、本説教壇の設置時期の解明のためには、カルレットの説を元に中央身廊の内陣障壁の設置時期を明らかにする必要があり、そして本説教壇の機能を詳らかにするためには、本聖堂における使徒書簡側と福音書側の持っていた意味をひも解く必要があるだろう。― 27 ―― 27 ―
元のページ ../index.html#39