から指摘されている(注10)。そして、伝雪舟筆永青文庫本が梁楷様で描かれている、ということを手掛かりに、梁楷の遺作にこうした画の源泉となるような作品がなかったのかを探すと、梁楷筆との伝称を持つ「猿飼」双幅が「御物御画目録」の「小 二幅」の項に著録されていることが見出される(注11)。伝雪舟筆永青文庫本が梁楷様を示していたことを考えると、足利将軍家所蔵の、この「猿飼」双幅と伝雪舟筆永青文庫本の猿曳図様との間に何らかの関係があった可能性が浮上してくる。次に、伝雪舟筆永青文庫本の「琴棋書画図屛風」や筑波大本の探幽筆「野外奏楽・猿曳図屛風」などが、農村の風景を描いていることを考慮すると、文献上の梁楷の遺作の中に、「村楽」、「田楽」あるいは「村田楽」といった作品が散見されることに気づかされる。たとえば、東福寺の僧・太極の日記『碧山日録』の長禄3年(1459)11月14日の条には、太極が友人の清岩曇哲の居所を訪ねた際に、壁に梁楷が描いたとされる「村田楽図」が掛けられていたことが記録されている(注12)。太極の記述によると、そこには小鼓を鳴らす人、板子を拍つ人、舞う人、そしてその傍らで感嘆したり笑ったりする見物人たちが描かれていたという。この描写は、筑波大学本の探幽筆屛風における「野外奏楽」、そして安信や尚信の「猿曳・酔舞図屛風」における「酔舞」の場面を思い起こさせる。あるいはここに現れる「村田楽」こそが、探幽筆筑波大本その他の、猿曳の場面を含む「猿曳・酔舞図」の主題ではないだろうかと思われるのである。そこで中国宋元時代における「村田楽」という画題について調べてみると、元代の文人・虞集による「題村田楽図」という詩が見出される(注13)。そして、この詩の第九句には「或いは弥猴を弄びて真仮を笑ふ」とあるのである。猿曳は「弄猴人」とも言うので(注14)、ここでの「弄弥猴」は猿曳を意味するものとしてよいだろう。また、第十五句には「村優競ひて楽を携へて具に至る」とあって、村優(むらおさ)たちが楽器を演奏していることが分かる。虞集「題村田楽図」に見えるこれらの語句からも、筑波大本の探幽筆「野外奏楽・猿曳図屛風」の主題は、「村田楽」であったと確かめられたといってよい。こうして見てくると、「御物御画目録」収載の伝梁楷筆「猿飼」双幅の主題も、『碧山日録』に現れる「村田楽」に類するものであったのではないかと思われてくる。そしてさらに、双幅という形式を考えると、筑波大本探幽筆屛風の型の「猿曳・酔舞図」の図様は、この「猿飼」の図様に由来している可能性が強く示唆されるのである。― 381 ―― 381 ―
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