鹿島美術研究 年報第36号別冊(2019)
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3.南宋の雑劇「村田楽」先に引用した、『碧山日録』に現れる梁楷筆とされる「村田楽図」に関しては、美術史学の分野における言及はわずかであり、田中一松氏の「梁楷の芸術」がほぼ唯一のものである(注15)。しかしながら、芸能史研究の分野においては、この記述は早くから知られており、しばしば言及されてきたものであった。それはこの史料が、中世に爆発的に流行した田楽が、我が国固有の芸能であるのか、あるいは中国からもたらされたものであるのかという、田楽の起源についての重要な問題を提起しているからである。早くは大正4年(1915)に、高野辰之氏がその著書『歌舞音曲考説』においてこの『碧山日録』中の文章を引き、「梁楷の画いた所は余りに我が国の田楽に酷似して居るのである。小鼓といい、拍板子といい、目に立つ行粧をして舞うという所は栄花物語や洛陽田楽記にいう所と真によく合して居るのである(中略)田楽も亦唐土の風習を輸入したものではないかと思われるのである」と主張している(注16)。しかし、この高野氏の主張は、その後の田楽史研究において、かならずしも受け入れられていない。たとえば近年西岡芳文氏は「字面の同一をもって田楽が中国にもあったとするのは早計であろう。中国の「村田楽」は「村田の楽」というほどの意味である、日本中世の田楽の特徴を備えた芸能とは到底認められない」と述べている(注17)。一方、この議論に関して、田楽中国渡来説の立場から豊富な資料を提供したのが、浜一衛氏であった。浜氏は、南宋・周密の『武林旧事』において元夕(元宵)の舞台の演目が列挙される部分に(注18)、「……早划船・教象・装態・村田楽・鼓板・踏橇……」と、すでに「村田楽」が含まれることを指摘する。さらに、相国寺23世の西胤俊承(1358-1422)の著作『真愚稿』に収載される詩「村田楽図」(注19)を挙例して、これは「村優のやる村田楽であって、梁楷の村田楽もこのたぐいであり、村田楽は中国でもおもしろしとして宋代には首都でも行われていたことは前にのべた通りである。すでに宋代に村田楽として芸能化されていたものがわが国に影響したのであろう」と結論している(注20)。ちなみに、浜氏はあげていないが、「村優のやる村田楽」ではなく、杭州市街で行われていたであろう村田楽の芸態を窺わせる詩が、南宋の戴復古(1167-1248)による、李公麟(1049-1106)筆とされる「村田楽図」への題として残っている(注21)。太極は『碧山日録』の中で「村田楽」について、「耳に聴くも目には未だ之れを見ず」と述べるが、これは、太極が「村田楽という歌舞曲があることを知っていた」ということであって、実際に太極が「村田楽」の演奏を聴いたことがあったわけではな― 382 ―― 382 ―

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